大型連載「監督」の第9弾は、今年90周年の巨人で9年連続リーグ優勝、9年連続日本一のV9を達成した川上哲治氏(13年10月28日逝去)を続載する。
「打撃の神様」だった名選手、計11度のリーグ優勝を誇る名監督。戦前戦後の日本プロ野球の礎を築いたリーダーは人材育成に徹した。没後10年。その秘話を初公開される貴重な資料とともに追った。
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川上が監督に就任したのは1960年(昭35)オフだった。現役引退をスクープしたのは、日刊スポーツの小村多一だった。打撃コーチを務めた後、水原茂に代わって、その座に就いた。
監督に指名したのは正力松太郎だ。戦前に読売新聞の経営を引き受けて飛躍的に発行部数を伸ばし、日本にテレビ放送を導入した。NHKから1年遅れて民放初の日本テレビを創業開局する。
1931年、読売新聞は初めて日米野球を主催し、34年にベーブ・ルース、ルー・ゲーリックら豪華メンバーを日本に招いた。当時の記録をたどると、その熱狂ぶりが残されている。
オープンカーで銀座通りをパレードする米国チームに、沿道の人々が日米両国の国旗を振りながら「ルース! ルース!」と大合唱。大リーグの英雄も立ち上がって応えたという。
ちまたで「巨人、大鵬、卵焼き」のフレーズがはやったように大衆路線を突っ走った。日本にプロ野球を根付かせた正力は3大指針を掲げた。
-「巨人軍は常に強くあれ。巨人軍は常に紳士たれ。巨人軍はアメリカの野球に追いつき、そして追い越せ」-。
川上 正力さんは会社の上の人というより、師弟という感覚でした。わたしは正力さんの指針を何度もかみしめた。巨人軍が強くあれというのは、勝てということだと思いました。勝負ごとだから当たり前のことですが、勝つことに徹底しろというふうに受けとったのです。
監督1年目の61年から海外キャンプをした。宮崎キャンプの後、ドジャースのフロリダ州ベロビーチを訪問。巨人顧問の鈴木惣太郎が、ドジャース会長ウォルター・オマリーと旧知の間柄だったことで実現した。
川上はコーチのアル・キャンパニスが書き下ろした著書「ドジャースの戦法」に出合っていた。バント処理のフォーメーション、バックアップ、けん制、中継プレーなどが図解入りで説明されていた。
日本では各選手が、攻撃、走塁、守備をして、個人プレーの結果が勝敗を分けた。だが米大リーグではグラウンドの9人が連係し、統一感をもって動いていることに驚いた。
今では当たり前だが、当時の日本では野手が有機的に動くチームなど皆無だった。川上はドジャースから学んだチーム作りを、そのまま持ち込んだ。それが今でいう「チームプレー」だった。
川上 各プレーヤーは自分のことに忠実であればいいのです。その忠実で真剣であれば、すなわち勝つために努力すればよいのです。他の選手のことをとやかく言うことはない。チームのためにということでなく、個人の忠実なプレーの結集がチームワークだと思っています。
広岡、長嶋らも参加したダブルプレーなど守備練習では、捕球、トスの仕方、ベースの入り方など、まるで高校球児がやる練習が繰り返された。基本の徹底が勝つすべにつながることを思い知った。「ドジャースの戦法」は選手全員に配布された。この1冊が日本の野球を変えていく。【寺尾博和】(つづく、敬称略)
◆川上哲治(かわかみ・てつはる)1920年(大9)3月23日、熊本県生まれ。熊本工では夏の甲子園準優勝2度。38年巨人入団。投手から一塁手に転向し、39年に史上最年少の19歳で首位打者。主なタイトルは首位打者5度、本塁打王2度、打点王3度。MVP3度、ベストナイン10度。58年引退し、2年間のコーチを経て61年巨人監督就任。65~73年に「V9」を達成するなど歴代最多の日本一11度。背番号16は永久欠番。65年野球殿堂入り。13年10月、老衰のため93歳で死去。現役時代は174センチ、75キロ。左投げ左打ち。