元吉本新喜劇の看板座長、木村進さん(享年68)の葬儀・告別式が22日、大阪市都島区で行われ、桂文枝(75)桂小文枝(68)や、木村さんの指導を受けた元座長の内場勝則(58)らのほか、会場外にも多くの一般ファンが集まり、約200人が出棺を見送った。

38歳で脳内出血で倒れた木村さんは、後に劇団を立ち上げたものの、第一線を退いてからは30年。新喜劇時代の晩年、共演した内場は「あの人が見てくれてたから…」との言葉が出せず、言葉に詰まって涙。木村さんの激励があって、80年代後半のリストラを乗り越えた秘話を明かした。

故花紀京さん、故岡八郎さん(当時)らが隆盛へ導いた新喜劇も、80年代には若返りを図ろうと世代交代が進められた。座員個別に面談が行われ、内場も現座員の未知やすえ(55)と夫婦漫才を組むように言われ、退団するつもりだった。

「やめよっかなキャンペーンのとき、リストラが進んでて、そのとき、うめだ花月の楽屋の電話が鳴ったんです」

当時、梅田花月の楽屋にあった公衆電話は、外部からの連絡用にも使われ、けたたましい着信が響いた。すでに病に倒れ、入院中だった木村さんは電話で、内場に「おまえ、ツッコミええから、リストラみたいやけど、頑張れよ」。花紀さんにも師事し、新喜劇の伝統を知る内場を激励した。これで、内場は翻意。新喜劇に残り、後に座長に就き、花紀・岡八の黄金期から、木村さんや間寛平らが紡いできた新喜劇を体現。ギャグだけに頼らず、筋で見せる「新喜劇の基本」を後継に伝承してきた。

「自分、倒れても見てくれてたんやなって…」。むせび泣きしながら言葉を絞り出した。新喜劇での駆け出し時代、木村さんが座長の公演にも出て、舞台後は木村さんの「1人反省会」が終わるのを待つのが日課。「ずーっと何か考えてはって、ずーっと待って、終わったら『飲みに行こか』と」。木村座長の思い、考えを間近で聞いてきた。

木村さんは、自らが若くして座長に就いただけに「若いやつは自由に、おもろいと思うことをやったらいい」との考えで、内場はその言葉を胸に後輩を指導してきた。「ありがたかった。楽しかった。笑えて、歌えて、踊れて、動きもきれい。笑いをとる顔をしなくても笑いをとれる人でした」と振り返り、感謝した。

自主企画公演や芝居企画が全盛だった当時には、文枝も自らが座長として芝居を上演。文枝座長の芝居には、木村さんが座員で出演することもあり、あるとき菊池寛の「父帰る」を題材に上演したことがあった。

年下の木村さんが父の役で、ミュージカル調、任〓(人ベンに峡の旧字体のツクリ)(にんきょう)風と、日ごと変わる演出にも木村さんは対応。「どんな注文にも、年下やのに、立派なお父さんを演じてくれた。若い人からお年寄りまでなんでもできた」と、その技量に感服したという。

この日の葬儀には、会場外にも大勢のファンが取り巻くように集まり、口々に「進ちゃん、ありがとう」と言い、別れを告げた。

喪主を務めた妹の木村龍子(たつこ)さん(67)は、ファンに向かい「わざわざありがとうございます」と頭を下げ、車に乗り込んだ。