来月5日に1998年(平10)4月6日からパーソナリティーを務める、TBS系ラジオ「生島ヒロシのおはよう定食/一直線」(月~金曜午前5時)が6000回目の放送を迎える、フリーアナウンサー生島ヒロシ(70)。宮城県気仙沼市に生まれ、米国留学、TBSを経てフリーに。「生島ヒロシ6000回の歩み」と題して、その軌跡を追ってみた。
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父親が勤め人で、おふくろとその母親の祖母が、気仙沼で、ずっと「伊勢浜食堂」というのをやっていました。あれはおばあちゃんの知恵でしたね。いわゆるダブルインカム(二重収入)で、おやじにはサラリーマンをやらせて、自分たちは食堂を経営して支える。おやじが「独立して会社をつくる」なんて言ってたんですけど、いやいや安定した給料を持ってきてくれる方がいいと言っていました。
食堂はいい時もありましたけど、気仙沼は港町で漁業の景気に左右される。僕が中学校の頃から、200カイリの漁業海域の問題とかがあって、景気がみるみる悪くなってきました。それでも、食うだけは困らないんですよね、食堂っていうのは。
でも、そういう家の状態を間近に見ていて、17歳も離れた弟が生まれましたから、大学行きは諦めていたんです。家の経済状態がよくないのを分かっていたから。行けたとしても、家からの仕送りなしで、全て自分でやっていかなきゃいけない。浪人もできないと思っていました。
そんな状況で、田舎ですから、長男はみんなの面倒を見なきゃいけないと考えていました。祖母は「なせば成る、なさねば成らぬ何事も」と、いつも言っていました。僕には将来は公務員、市役所か、それじゃなければ電電公社に勤めて欲しいと言っていました。それで、お嫁さんに「伊勢浜食堂」をやらせてというプランを持っていた。
でも、おやじは、これからは国際的な時代になっていくから、長男だからといって気仙沼にいなくてもいいという考えでした。で、高校3年の時に受験を諦めていたんですけど、受験をしろと言ってくれました。働きながらでも行けるし、なんとかするからって。そのおやじの言葉で大学受験。なんとか法政大学に引っ掛かったからよかった。浪人は絶対無理ですから。
高校の担任の高橋先生は、早大を卒業した人で「お前、早稲田に行け」って。1年浪人すれば、必ず受かると言ってくれたんですけど。「先生、うち金がないんですよ。浪人はしません」って。
あの状況で大学に行けたのは、本当によかった。上京した、その日から皿洗いのアルバイトをしていました。時給は120円でした。1969年(昭44)。世の中は「70年安保」の時代でした。学生運動が盛んで、僕も少しかじったけど、すぐ挫折しました。
みんなが平等に暮らせる社会をつくらなきゃいけないと燃えていたんだけど、ちょっと俺とは違うなと感じました。平等の精神が根付いてたんだけど、言っていることと行動が違う。いいことを言っていても、行動が伴っていない。
自分の心の中で自家撞着(どうちゃく)を起こして、しばらく落ち込んでいました。そこで、声を掛けてくれたのが空手の同好会の先生でした。「お前、アメリカに一緒に行かないか」と。僕の人生が、大きく変わる誘いでした。
僕は松濤会流という流派でしたが、隣の剛柔流の同好会で汗を流していたのが菅義偉首相(72)でした(続く)。
◆生島(いくしま)ヒロシ 1950年(昭25)12月24日、宮城県気仙沼市生まれ。71年に法大経済学部を中退して渡米。75年カリフォルニア州立大ロングビーチ校ジャーナリズム科卒。76年TBS入社。89年にフリー。現在のレギュラーはTBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食・おはよう一直線」(月~金曜午前5時)。長男は俳優生島勇輝(36)次男は俳優生島翔(35)。血液型A。



