東京オリンピック(五輪)マラソン、競歩の札幌移転-。突然のニュースが開幕まで9カ月と迫って飛びだした。国際オリンピック委員会(IOC)の決定に東京都が折れてスピード決着。五輪史上初めて開催都市以外での実施となった。マラソンは実施339種目のうちの2つ(男女)だが、五輪にとっては特別な種目。歴史から社会的な背景まで「五輪=マラソン」と言われる理由を掘り下げた。

■マラトンの戦い

「素晴らしい! 感動した!」。近代五輪の創設者であるクーベルタン男爵はマラソンを見て叫んだと伝えられている。1896年の第1回アテネ大会、ここでの成功が「五輪の華」誕生の第1歩だった。

第1回開催地をアテネに決めた後、実施競技を決める会議でフランスの言語学者ブレアルが「マラトンの戦い」を紹介したのがマラソン誕生のきっかけ。マラトンの戦いでアテネまで勝利の報告に走った兵士の故事にならって、陸上競技の種目に加えられた。

戦前からモスクワ五輪までのマラソン成績
戦前からモスクワ五輪までのマラソン成績

同大会陸上の最終種目として行われ、地元ギリシャのルイスが優勝。沿道の観客は興奮し、ギリシャの皇太子が並走するお祭り騒ぎになったという。初めて行われたレースが大成功し、マラソンは陸上の人気種目として定着。その後は五輪陸上の「目玉」になった。

もともと陸上最終種目だったが、72年ミュンヘン大会から陸上が後半に移行したため、五輪を締めくくるレースになった。女子が採用された84年ロサンゼルス大会からは、大会中間に女子、最終日に男子が恒例になった。96年アトランタ大会では閉会式で男子の表彰式を実施。それ以降は閉会式の「一部」にまでなった。

マラソンの「2時間台」は、他の五輪競技にも影響を与えた。00年から採用されたトライアスロンは「マラソンの時間」を基準に現在の距離になったし、野球の7回戦制浮上も「マラソンに比べて長い」から。3時間以上かかる50キロ競歩も東京大会以降廃止される。マラソンは五輪そのもの。実施される339種目のうちの1つではない。

ロサンゼルス五輪からリオ五輪までと女子のマラソン成績
ロサンゼルス五輪からリオ五輪までと女子のマラソン成績

■「行きたい」喚起

「ここいいなあ。行きたいなあ」。五輪のマラソン中継を見て、そう思った人も少なくないはず。マラソンは、開催都市にとって最大のアピールの場。観光名所を詰め込んだコースで世界に街をPRする。来年の東京五輪でも新国立競技場、浅草や銀座、スカイツリーに東京タワーと、世界への発信を意識した東京が誇る「ビューポイント」満載だった。

基本的には陸上競技が行われるメインスタジアム発着で、開催都市を巡る42・195キロ。それが、64年東京大会の時に五輪史上初めてテレビでフル中継されてからは「都市PR」の側面が強くなっていった。

もちろん、選手にとっては観光名所も距離を示す目印にすぎないが、テレビ視聴者にとっては観光案内。メダル争いとともに、通過する街が放送される。だからこそ、開催都市は「都市の魅力を詰め込んだ」マラソンコースを策定する。

前回のリオ大会はカーニバルで有名なサンポドロモを発着。カンデラリア教会など名所を巡った。12年ロンドン大会は主競技場発着を10カ月前に変更し、バッキンガム宮殿、セントポール大聖堂、ロンドン塔など観光名所を回る市内中心部のコースになった。

競泳や柔道が盛り上がっても、世界に発信されるのは競技場の内部だけ。開催都市が紹介されるのは、マラソンしかない。トライアスロンや自転車ロードも公道だが、スピードが速すぎて「観光案内」には適さない。「2時間強の観光PRビデオ」を発信できることは、開催都市となる魅力の1つなのだ。【荻島弘一】

<五輪マラソンあれこれ>

◆1904年セントルイス 猛暑の中、トップでゴールしたのは地元米国のローツ。ところが不正行為で失格となる。レース途中で脱水症状を起こして車に助けられ、再び走ったのだ。当時は全区間に係員がいたわけでもなく「キセル」が横行。第1回アテネ大会でも3着の選手が失格した。

◆1908年ロンドン 第1回以来距離は「約40キロ」だった。1908年ロンドン大会も当初はウィンザー城からスタジアムまで42キロだったが、アレクサンドラ王妃が「ゴールは貴賓席前で」などと注文。結局195メートル延びた。もっとも、この延長でドラマが生まれ、21年には正式に42・195キロになった。

◆1912年ストックホルム 日本人選手第1号の金栗四三は最高気温40度という死者が出る猛暑の中、日射病で倒れて途中棄権。行方不明として扱われた。67年に五輪開催55周年記念式典に招待され「54年8カ月6日5時間32分20秒」でゴール。「長い道のりでした。孫が5人できました」。

◆1936年ベルリン 日本に初めて金メダルをもたらしたのは孫基禎。日本統治時代の朝鮮出身で、前年に世界最高記録を出した勢いに乗ってアジア人で初めて頂点に立った。銅メダルの南昇竜も朝鮮出身。2人はともに終戦後に韓国籍となり、指導者として韓国陸上の発展に尽くした。

◆1960年ローマ エチオピアのアベベ・ビキラは素足のまま圧倒的なスピードで優勝。アシックス創業者の鬼塚喜八郎はそんな「裸足の英雄」に自社のシューズを贈り続けた。4年後の東京五輪で履いたのはプーマ社製。アマ至上主義の当時だが、契約金は破格だったと伝えられる。

◆1984年ロサンゼルス 初めて行われた女子レース、優勝したベノイトから20分遅れて競技場に現れたアンデルセン(スイス)はフラフラだった。明らかに熱中症だったが、並走する係員が手を貸したら失格。世界中が見守る中でゴールするも、マラソンの過酷さを表す衝撃シーンだった。

◆1992年バルセロナ 前年の世界選手権で優勝した谷口浩美が「優勝候補筆頭」として出場。給水場の転倒で8位に終わり「こけちゃいました」と苦笑いで言った。本命や世界記録保持者が勝てない競技。伏兵の森下が銀メダルをとる中、潔い姿勢に競技の奥深さと難しさがにじんだ。

92年バルセロナ五輪で「こけちゃいました」と苦笑いの谷口浩美
92年バルセロナ五輪で「こけちゃいました」と苦笑いの谷口浩美

◆1996年アトランタ 前回大会銀メダルの有森裕子が3位でゴール。苦しかった4年を振り返り、涙で「自分をほめたい」。流行語大賞も獲得した名言のもとは岡山・就実高時代に聞いたフォークシンガー高石ともやの詩。「これを言える自分になろう」という思いが12年後に結実した。

◆2000年シドニー 34キロ地点でサングラスをとってスパートした高橋尚子は、シモンを振り切って優勝。「すごく楽しい42キロでした」の笑顔でQちゃん人気が爆発し、国民栄誉賞も贈られた。続く04年大会は野口みずきが優勝。4大会連続メダル獲得で、女子マラソンはお家芸に。

2000年シドニー五輪で優勝した高橋尚子
2000年シドニー五輪で優勝した高橋尚子

◆2004年アテネ トップを走っていたデリマ(ブラジル)は、終盤にコース乱入者に抱きつかれて失速。2人に抜かれて3位も「完走できて、メダルがとれてうれしい」。乱入者を非難したり、怒ったりしない姿が世界から称賛された。16年リオ五輪では最終聖火ランナーを務めた。