五輪は、競技を通じて世界とコミュニケーションする場所と捉えています。野球・ソフトボールの24年パリでの落選決定の後のアクションが進まないように感じます。今こそプロ、アマという垣根なく、各国やIOCにも働きかけ、署名活動など地道にコミュニケーションの努力をしていかなければ28年ロス五輪の復活も遠のいてしまいます。

26歳で出場したロス五輪で、松永怜一監督から、宣銅烈擁する韓国との初戦に急きょ先発を言われました。7回を1安打に抑え、宮本和知-伊東昭光と完封リレーで勢いがついた。決勝の米国戦は、圧倒的なアウェーのドジャースタジアム。3-1で迎えた7回2死満塁で登板し、シェーン・マックを三振に取ったことで優勝を確信しました。審判の判定に対しても、球場のブーイングにも動じない日本の礼節が勝因の1つにあったように思います。

プリンスホテル時代の84年5月、遠征で来たキューバのナショナルチームの主力5人を三振に取ったことで、同7月に五輪代表に呼ばれました。練習期間はわずか40日でも、若さと緊張感でまとまり、負ける気がしませんでした。和歌山・南部高2年の秋、センバツをかけた試合で延長18回を投げたが決着がつかず再試合も完投で敗戦。肩甲骨に5センチほどのヒビが入る疲労骨折で、肩が上がらなくなった。監督の指導で下手投げに転向し「下手投げの本格派」として投げ続けられたのは、まさにけがの功名でした。

ロス五輪の大会中は、宿舎も機関銃を持った警備員に守られた物騒な冷戦時代でした。二重のバリケードの中にある選手村に入り、ルーマニア体操コーチになっていた「コマネチ」を見て皆で興奮しましたね。金メダルをもらって、他競技や、海外の選手、ボランティアからも祝福してもらえた。大会2日後にプリンスホテルと合流し、メキシコ経由でキューバに渡って試合。ボールを使わない守備連係のイメージトレーニングや、鉄球を使った投球練習などの光景を目にしたことも印象深いです。

現役引退後のプリンスホテル支配人の時、北京五輪前に宿泊していた星野仙一監督が「WBCはプロ。五輪はアマが理想型だと思う。任された以上は勝ちにいくが」と話されていました。プロで戦う東京五輪ももちろん応援しますが、五輪憲章をもう1度考える時期に来ています。

20年東京五輪の侍ジャパンもぜひ選手村を利用して各国、他競技のオリンピアンと交流してほしい。そこで感じる日の丸の誇りを胸に、表彰台を目指してほしい。これからを担う野球少年にとっても、甲子園、プロという目標は今後も続きますが、その間に五輪という夢がアマチュアの最高地点として存在し続けてくれたらというのが願いです。(第一ホテル両国専務)

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