鉄人が砕け散った日〈15〉最終回~復活1回KO、そして最強神話との惜別~

プロボクシング4団体統一世界スーパーバンタム級王者の井上尚弥(30=大橋)が5月6日、東京ドームで元2階級制覇王者ルイス・ネリ(メキシコ)と防衛戦を行う。

同会場でのプロボクシング興行は1990年2月11日の統一世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米国)の防衛戦以来、実に34年ぶり。

「アイアン」(鉄人)の異名で史上最強と呼ばれたタイソンは、井上と同じように圧倒的な勝利で無敗のまま王座を統一したが、東京ドームで挑戦者ジェームス・ダグラス(米国)に10回KO負けした。この一戦は“世紀の大番狂わせ”として今も世界で語り継がれる。

あの時、全盛期の無敗王者にいったい何が起きていたのか。なぜ伏兵に無残な敗北を喫したのか。来日から敗戦までの27日間、タイソンに密着取材した筆者の取材ノートをもとに、34年前にタイムスリップしてタイソンの鉄人神話崩壊までをたどる。

最終の第15回は「復活1回KO、そして最強神話との惜別」(敬称略)

ボクシング

5・6東京ドーム興行に向けて、井上が「ノーモア・タイソン」と意識する「世紀の大番狂わせ」―34年前を週2回連載で振り返ります

帰国

成田空港の出発ロビーに、ボディーガードに囲まれたタイソンが姿を見せた。

あの“世紀の大番狂わせ”から一夜明けた1990年(平2)2月12日午前、両目の腫れを隠すためサングラスを着用していたため彼の表情は分からない。

ただ、白いTシャツにブルージーンズの上下というラフな装いで、27日前に1800万円の真っ白なミンクのロングコートに身を包んで来日した時とは別人のようだった。

あのゴージャスな金満コートとともに、背負い続けた重荷まで取れたようで、どこかさっぱりしたようにも見えた。近寄りがたさの漂うピリピリした空気も、何となく和らいだように感じた。

私たち数人の記者が声をかけると、意外にも彼の方から歩み寄ってきた。

この時、どんな会話をしたのか、あまり覚えていない。ただ、静かに語ったタイソンの言葉ははっきりと記憶している。

「俺は必ず復活してみせる。絶対に諦めない」

「最後に一緒に写真を撮ってもいいか」と聞くと、彼は「もちろんだ」と言って私の肩に右手を回してきた。右肩に乗った彼の大きな手の重みが、私の心を温かくした。

東京ドームで敗れた翌日、帰国のため成田空港に現れたタイソン(右)と筆者(1990年2月12日)

東京ドームで敗れた翌日、帰国のため成田空港に現れたタイソン(右)と筆者(1990年2月12日)

3つのベルトも、最強王者の称号も、全て一夜にして失った彼は、周囲の人たちまでも離れていくことを恐れているのではないか。私はそんな気がした。

東京ドームの試合をプロモートした帝拳ジムの本田明彦会長の計らいで、私はタイソン一行のいる空港ラウンジに入れてもらった。

数十人の取り巻きたちが、今や無冠となった主人を囲んで何やら盛り上がっていた。

タイソンも笑っていた。その光景を見て、彼が大枚をはたいてまで大勢を引き連れている理由が何となく理解できた。

「引退したら真っ先に何がほしいか」という問いに「ファミリー」と即答した時の彼の顔が頭をよぎった。

決着

一方、東京で先送りされた試合結果は、意外な早さで結論が出た。

「勝敗保留」の発表の翌2月12日、3つの統括団体のうち東京に立会人を送っていなかったIBFが、こう正式発表した。

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1988年入社。ボクシング、プロレス、夏冬五輪、テニス、F1、サッカーなど幅広いスポーツを取材。有森裕子、高橋尚子、岡田武史、フィリップ・トルシエらを番記者として担当。
五輪は1992年アルベールビル冬季大会、1996年アトランタ大会を現地取材。
2008年北京大会、2012年ロンドン大会は統括デスク。
サッカーは現場キャップとして1998年W杯フランス大会、2002年同日韓大会を取材。
東京五輪・パラリンピックでは担当委員。