鉄人が砕け散った日〈4〉スイートルームで見せた、仮面の下の素顔と孤独

プロボクシング4団体統一世界スーパーバンタム級王者の井上尚弥(30=大橋)が5月6日、東京ドームで元2階級制覇王者ルイス・ネリ(メキシコ)と防衛戦を行う。

同会場でのプロボクシング興行は1990年2月11日の統一世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米国)の防衛戦以来、実に34年ぶり。

「アイアン」(鉄人)の異名で史上最強と呼ばれたタイソンは、井上と同じように圧倒的な勝利で無敗のまま王座を統一したが、東京ドームで挑戦者ジェームス・ダグラス(米国)に10回KO負け。この一戦は“世紀の大番狂わせ”として今も世界で語り継がれる。

あの時、全盛期の無敗王者にいったい何が起きていたのか。

なぜ伏兵に無残な敗北を喫したのか。来日から敗戦までの27日間、タイソンに密着取材した筆者の取材ノートをもとに、34年前にタイムスリップしてタイソンの鉄人神話崩壊までをたどる。

第4回は「スイートルームで見せた、仮面の下の素顔と孤独」(敬称略)

ボクシング

5・6東京ドーム興行に向けて、井上が「ノーモア・タイソン」と強く意識する「世紀の大番狂わせ」―34年前を週2回連載で振り返ります

初休養…向かった先は

1990年1月25日、タイソンは来日10日目にして初めて休養を取った。

午後、ドン・キング・プロモーターをはじめスタッフらを引き連れ、彼が巨大なリムジンで向かったのは、高級レストランでもショッピングでもなかった。

東京都台東区の上野動物園だった。

2年前の来日時に続く、2度目の訪問だった。

ジーンズとおそろいの紺のジージャンというリラックスした姿で現れたタイソンは、動物園入り口前の広場に群れるハトを見つけると、満面の笑みを浮かべて売店でポップコーンを購入して、寄ってきたハトにばらまきはじめた。

左目の下には連日の激しいスパーリングで受けたパンチによる痛々しい青黒いアザができていたが、彼のこんな柔和なうれしそうな表情を見たのは来日後、初めてだった。

上野動物園がある恩賜公園内で、ハトを素手で捕まえるタイソン(1990年1月25日)

上野動物園がある恩賜公園内で、ハトを素手で捕まえるタイソン(1990年1月25日)

貧しかった少年時代

米国ニューヨーク・ブルックリンにあるブラウンズビルのゲットー(貧しい黒人街)で生まれ育ったタイソンは、子どもの頃、同世代の仲間よりずっと小さかった。小心でたどたどしく話す彼は、格好のいじめの標的だった。

いつも殴られて、泣いていた。

父親の顔は知らず、母親からも愛情を注がれなかった。

唯一の心のいやしが、おとなしいハトだった。小学生の頃、廃屋となったビルの屋上で400羽のハトを飼っていた。そこで一夜を過ごすこともあったという。

ある日、その大切なハトを、体の大きな子どもに目の前で殺され、からかわれた。怒りに震えたタイソンは生まれて初めて、相手の顔面にこぶしをたたきつけた。ずっと恐れてきたあの少年が、目の前で、顔から血を流して昏倒(こんとう)していた。

それは自らの腕力に目覚めた瞬間でもあった。逃げたり、隠れたりすることをやめた彼は、そこから暴力と犯罪の世界に足を踏み入れていく――。

もしかするとタイソンは、70億円を稼ぎ出して億万長者になった今も、子どもの頃とはまた別の孤独を抱えているのかもしれない。

寄ってきたハトを一瞬の早業でつかみ上げ、顔を近づけてはうれしそうに笑う顔を見て、私はそう思った。

スイートルーム初潜入

実はその6日前、1990年(平2)1月19日、私はタイソンが宿泊していた東京・紀尾井町のホテル・ニューオータニを訪れていた。

39階にある1泊15万円のスイートルーム。

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1988年入社。ボクシング、プロレス、夏冬五輪、テニス、F1、サッカーなど幅広いスポーツを取材。有森裕子、高橋尚子、岡田武史、フィリップ・トルシエらを番記者として担当。
五輪は1992年アルベールビル冬季大会、1996年アトランタ大会を現地取材。
2008年北京大会、2012年ロンドン大会は統括デスク。
サッカーは現場キャップとして1998年W杯フランス大会、2002年同日韓大会を取材。
東京五輪・パラリンピックでは担当委員。