勝っても負けても検車場では明るいキャラクターだった
勝っても負けても検車場では明るいキャラクターだった

ガールズケイリンの飯田よしの(30=東京)が引退することが22日、分かった。20年12月、立川最終日の落車がラストランとなった。

飯田は大学在学中に趣味でロードレースのチームに入り、そこでガールズケイリンの存在を知った。チームを通じて知り合った布施義憲(東京59期、11年引退)に師事し、競輪学校(現選手養成所)の106期に合格。同期には小林優香、石井貴子(千葉)、奥井迪といったスーパースターがいたが「あの人たちが異常なだけで、私は私で何とかやっていけるだろうと思っていました」と、当時を振り返る。

デビュー後は位置取り重視の競走スタイルで、通算の3連対率は18%。穴で2、3着に狙いたくなる選手だった。

思い出のレースは、15年2月の小倉。人気を集めた山原さくらと奈良岡彩子がけん制し合っている隙に、あれよあれよと逃げ切ってしまい、高配当を演出した。

レースでは勝負度胸が垣間見え、ポテンシャルを気持ちでカバーする印象だった。だから、本人が「私は勝負の世界には向いていなかった」と言ったのは意外に感じた。

「競輪はダッシュがないと駄目。並走しても踏み遅れてしまうし、努力ではどうにもならない部分もありました。ずっとアスリートでやってきた人たちには圧倒されたし、気持ちも弱かったんだと思います」

しかし、この世界に飛び込んだことに全く後悔はない。「一生付き合っていこうと思える友人が、何人もできた。先輩たちにもたくさんお世話になった。ケイリンを通じて人のつながりが大事ということを学べました」と多くの財産を手に入れた。

同期の青木美優(右)は無二の親友だ
同期の青木美優(右)は無二の親友だ

私にとって彼女は思い出深い選手である。ガールズケイリンが復活し、記者になって20年以上も男だけだった現場に女子が入ってきたことには戸惑いがあった。

その頃、ある地方の市議が「ガールズケイリンには集客効果がない。水着や裸になれば別だけどな」という失言を放ち、ワイドショーでも取り上げられる問題となった。

怒りや悲しみのコメントが飛びかう中、飯田の「プロテクターは付けてもいいですか?」というしゃれたコメントは異彩を放った。

面白い子がいるなと興味を持ち、そこから男子と同様に女子選手とも接していけるようになれた。

現在は第2の人生プランを模索中。しかし、コロナ禍ではっきりした予定が立っていない。「大学を辞めてすぐ選手になったから、他の世界も見てみたい。離れても同期たちの活躍は、ずっと応援し続けていきます」。

酒好きで、年上にもお構いなしにガンガン距離を詰める性格は、体育会系のベテランたちにかわいがられた。きっと次に行く世界でも多くの友人を作ることだろう。7年間お疲れさまでした。【松井律】