北海道コンサドーレ札幌でFW登録の菅大輝(24)が、ホームのセレッソ大阪戦に3バックの左で先発し、史上最年少の24歳9カ月14日でJ1通算200試合出場を達成した。17年4月2日の甲府戦でデビューし、プロ7年目。勝利が期待されたメモリアルゲームだったが前半だけで3失点し、後半13分に途中交代。1-4と完敗し、チームは3試合ぶりの黒星となった。悔しさを糧に、これまで同様におごることなく、歩みを進めていく。

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菅のメモリアルゲームを祝うかのように、本拠地・札幌ドームには20年のコロナ禍以降最多の2万4509人が詰めかけた。その200試合目は今季最多タイの4失点。勝利で飾ることができなかった。悔しそうな表情を見せながら「ミシャさん(ペトロビッチ監督)にここまで使ってもらって感謝の気持ちでいっぱいです」と口にした。

本職の左ウイングバックから1列下がり、3バックの左でプレーした。最終ラインから持ち味の豊富な運動量、左足のキック力を生かして攻撃参加を意識したが、見せ場をつくれなかった。後半13分での交代に「今日はオーバーラップしたのも前半の1回くらい。少なかったと反省している」と振り返った。

金髪がトレードマークの大胆な風貌とは逆に、コメントはいつも控えめ。元日本代表MF阿部勇樹が持っていた最年少記録を17年ぶりに更新することに「A代表でずっと戦ってきた選手。自分はまだそういう選手にはなれていないので、偉大な記録を自分が抜いちゃうのはプレッシャー」と戸惑いを見せていた。左足には自信があるが、いつも「右足はおもちゃ」と不安げ。19年東アジアE-1選手権で、札幌下部組織出身でトップ所属選手として初のA代表デビューを果たし、得点も挙げており、クラブの歴史を変え続けているが、満足しない。

父基博さんがコーチを務めていた小樽市の少年団でサッカーを始めたのは3歳だった。毎日走り込みをするよう言われ、厳しくサッカーの基礎を仕込まれた。褒められた記憶はない。中学2年の夏に父が亡くなった。直後のクラブユース選手権U-15は強行出場したが、「よく考えたらサッカーをやっていたのもお父さんがきっかけだったから、どうでも良くなった」。一時サッカーから離れようとした。「一瞬グレた」が母明美さんの涙を見て、気持ちが変わった。「泣かせちゃって、それでまた頑張ろうかなと思った」。偉大な先輩たちの記録を塗り替えるJリーガーとなった。

今や3児の父。22年1月に長男、今年5月に男女の双子が誕生した。夜のミルクは夫婦交代制。「かわいいけど大変。毎日筋トレ」と2人同時に抱っこしてあやす。1歳の長男は今季ホーム開幕戦でエスコートキッズとなり、一緒に入場した。「俺に似てスプリントばっかしている」。育児に奮闘するパパの顔を持つ。

18年1月のキックオフイベントのステージ上で、就任初年度のペトロビッチ監督に「僕を試合に使ってくれますか?」と心配そうに質問した時、プロ2年目の19歳だった。「君が使われないのが不思議なくらいだ」と、初の開幕スタメンに抜てきされ、6年目の今季も主力を任される。

大きなケガによる長期離脱がなく、順調に試合出場を重ねてきた。札幌の大塚フィジカルコーチは「親から授かった丈夫な体というのは間違いないが、トレーニングでも常に全力でやり続けるのが習慣となっている。だから試合でも過負荷にならない。普段から追い込めているから。それがすごいところ」と分析する。

1週間後には201試合目がやってくる。「神戸戦では今日とは違う姿をサポーターのみなさんに見せられたら」。200試合は通過点、まだまだ数字を積み重ねていく。【保坂果那】

▼J1通算200試合出場 札幌の菅が24日のC大阪戦(札幌ド)で達成。史上348人目。24歳9カ月14日での到達は阿部勇樹(千葉)が06年にマークした24歳11カ月20日を抜き、史上最年少記録となった。J1初出場は17年4月2日の甲府戦。

◆菅大輝(すが・だいき)1998年(平10)9月10日、北海道小樽市生まれ。3歳でサッカーを始め、札幌U-12、15、18から17年トップチーム昇格。J1通算200試合12得点。日本代表はU-16から世代別を経験し、19年東アジアE-1選手権でA代表デビューを果たして初得点。171センチ、78キロ。家族は妻と2男1女。利き足は左。背番号4。愛称「スガちゃん」。