8月2日。日本のスポーツ史が始まった日である。1928年(昭3)アムステルダム五輪で、織田幹雄が陸上男子3段跳びを制して日本人初の金メダリストになった。その約30分前、女子800メートルで2位でゴールした人見絹枝が、日本女子初のメダルを手にした。
本命の100メートルで準決勝敗退した人見は「これでは日本に帰れない」と、走法のまるで異なる未経験の800メートルへの出場を監督に泣いて直訴した。その決意を自伝『スパイクの跡』にこう記している。「百メートルに負けてしまったと言って日本の地を踏める身か(中略)死の覚悟をもって……」。
日本唯一の女子選手で、日本初の女子の五輪代表でもあった。時は大正から昭和へ。「女性がパンツ姿で太ももを出して走るなどはしたない」という批判と偏見が根強かった時代。人見の言葉には「五輪でメダルを取って世間の見方を変える」という先駆者としての覚悟がにじんでいた。
あれから95年。7月31日に日本がサッカー女子W杯で1次リーグ1位突破を決めた。格上のスペインに4ゴールを奪っての快勝。パンツ姿でピッチを走る彼女らの何とたくましく、頼もしいことか。2度目の頂点への期待も膨らむ。人見から始まる日本女子スポーツの年表に、新たな歴史を刻みそうな勢いだ。
テレビ放送は開幕1週間前まで決まらなかった。プロ化して開幕したWEリーグの1試合の観客は2シーズン平均で1500人に満たない。11年にW杯初優勝した日本代表が、近年は国際舞台で結果を残せていないのが、人気低迷の要因とも言われる。人見と同じような現状打破への強い思いも、今のチームの発奮材料になっているのだろう。
余談になるが、毎日新聞の運動部の記者でもあった人見は、五輪から帰国後に同社が主催する選抜高校野球でのプラカードを掲げた入場行進と、勝利校の校旗掲揚と校歌吹奏を提案。翌29年(昭4)の選抜大会から実施され、今も続く。アムステルダムの表彰台に上がった経験と記憶は、意外なところで形になって残っている。
メダリストになった人見は記者として働きながら、国内外の競技会に出場し、講演で全国を行脚し、強化費捻出のための募金を集め、後進の育成にも力をそそいだ。その無理がたたり、五輪からわずか3年後の31年夏、肺の病気で24歳8カ月の短い生涯を終えた。女子スポーツの普及と発展にささげた人生だった。
8月2日は人見絹枝の92回目の命日でもある。【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)






