男子500メートルで、森重航(21=専大)が34秒49で銅メダルを獲得した。日本勢としては10年バンクーバー大会以来、3大会ぶりの表彰台となった。8位村上右磨、20位新浜立也と五輪初出場トリオで挑み、98年長野五輪・清水宏保以来の金メダルには届かなかったが、日本勢最上位で存在感を示した。

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19年7月、がんのため森重の母俊恵さん(享年57)がこの世を去った。その4日前に残した「スケート、がんばれ…」という最期の言葉を胸に、初めての五輪に臨んだ。

俊恵さんは森重が小学時代から約20キロ離れているリンクへ日々送迎し、大会時はさらに長距離を運転してサポートした。釧路へは片道1時間半、ナショナルトレセンがある帯広へは3時間半もかかる。運転中に突然飛び出して来る野生動物や、冬場の雪道にも骨が折れたが、息子が好きなスケートに没頭する姿を目にすると、疲労も吹き飛んだ。

全校生徒が15人程度だった上風連中3年時、全国中学大会の500メートルを中学新記録で制し、1000メートルと合わせて2冠を達成。実家の牧場経営は休みがないため、大会応援は両親のどちらかしか行けない。この時、俊恵さんは留守番だった。

息子の凱旋(がいせん)を中標津空港で出迎えた。中学の仲間が作ってくれた横断幕とともに。地元のヒーローになった愛息の両脇に寄り添い、記念撮影をした。これが親子3人で撮った最期の写真になった。

12年、俊恵さんは乳がんを患った。森重が小学6年の頃だ。手術は成功。回復後も息子の練習送迎や遠征に帯同した。

高校は10年バンクーバー五輪の男子500メートルで銅メダルの加藤条治を輩出した山形中央高に越境入学。離ればなれの生活になっても、全国高校総体は3年連続で俊恵さんが駆けつけた。

高校3年の総体応援から戻った19年1月。俊恵さんは体調を崩す。父誠さん(68)は「医者から『もう長くない』って。骨にも転移しちゃってて。肝臓に転移したのが大きかった」。

母の病気について「高校時は何も聞かされてなくて、重症化してから聞いた」という森重は同年4月、専大に入学。学業とスケートの練習に多忙を極め、故郷にはなかなか帰れなかった。それでも1度、スケジュールの合間を縫って帰郷し「次に帰れるのは夏休みかな」と言うと母は「もう帰らないでいい。スケートを頑張りなさい」と告げた。

6月、体調がひどく悪化。それでも「航の誕生日までは生きたい」と気力を振り絞った。

7月17日。森重、19歳の誕生日。話すことが出来ないほど病状が悪化していたが、誠さんは聞いた。「誕生日だから電話するか」。うなずく俊恵さん。携帯電話を鳴らすとしばらくして応答した。「ほら、航だぞ」と携帯を妻の耳元にそっと当てる。俊恵さんは、通話口に声を絞り出した。

「スケート、がんばれ…」

苦しくてもうはっきりとは、しゃべれないが森重は確実に受け取った。母の命を懸けた言葉を。涙声が電話口から病室に漏れた。

「2日前からほとんど、しゃべれなかったからね。よく言えたよ」と誠さん。それが本当に、最期の言葉になった。4日後の21日、俊恵さんは旅立った。息子への深い愛情を残して。【三須一紀】

◆森重航(もりしげ・わたる)2000年(平12)7月17日、北海道別海町生まれ。8人きょうだいの末っ子で、同郷の先輩新浜立也と同じ別海スケート少年団白鳥出身。上風連中3年時に全国中学の男子500メートルを中学新記録で制し、1000メートルと合わせて2冠。山形中央高では18年全国高校選抜で500メートル、1000メートルで2冠。19年に専大進学。今季から初めてW杯に参戦し、昨年12月のW杯ソルトレークシティー大会で500メートル初優勝。W杯ランキング2位で北京五輪を迎えた。趣味は漫画、球技。175センチ、72キロ。