亡き父へ、育ててくれた母へ-。24歳以上のオーバーエージ(OA)枠でリオデジャネイロ五輪に出場する広島DF塩谷司(27)は、感謝の思いを胸にメダル獲得を目指す。泣き虫で小学校を休みがちだった少年が、日本を背負って立つ存在になるまでの、悲しくも勇敢な物語を紹介する。

 もうすぐ父の命日がやって来る。09年7月22日。朝早く、携帯電話が鳴った。前日まで元気に働いていた父晋也さんが自宅で倒れたという。国士舘大に在学し都内で寮生活をしていた塩谷は、慌てて徳島行きの飛行機に飛び乗った。病院に着いたのは息を引き取る直前。みとることはできたが意識は戻らなかった。くも膜下出血。まだ45歳。あまりにも早く、突然の死だった。

 告別式を終えると塩谷は、大学を中退することを決めた。特待生とはいえ授業料の一部を免除されるだけ。家から月5万円の仕送りをもらい、寮費と食事代、遠征費などを合わせれば、かなりの金額がかかる。3人兄弟の長男。調理師だった父が急逝し、介護の仕事を始めたばかりの母の収入だけでは生活はできない。そう考えての決断だった。だが、サッカー部の細田三二監督は「お金のことは何とかする」と言ってくれた。その言葉がなければ今の塩谷はいない。

 当時を、母宏美さん(51)が振り返る。

 「あまりにも急なことで、私は何が何だか分からなくて。司が(サッカーを)やめることを考えたというのは、後になってから聞きました。小さい頃からプロになりたくて、そのために大学にも行った。いろいろ悩んだのだと思います」

 小さい頃は泣き虫。宏美さんは、苦労して育てた。

 「泣きだすと何時間でも泣いていました。朝は学校の門の前で『行かない』って泣く。1年生の1学期は、あまり学校に行ってないんじゃないかな」

 そんな塩谷が「サッカーをやらせて」と言ってきたのは幼稚園の頃だ。2歳下に次男、6歳下に三男。宏美さんは、すぐにやらせなかった。乳飲み子を抱えての送り迎えが大変なだけでなく、泣き虫の長男が長く続けられるとは思えなかったのだろう。本格的に始めたのは小学2年。めきめき上達した。泣き虫はやんちゃになり、ケガが絶えなかった。

 「遊んでいてクギを踏んだり、ガラスを割って手を切ったり。サッカーでは鎖骨骨折、膝のお皿も割った。6年生の修学旅行では水あめの棒をくわえたまま枕投げをして、棒が喉に突き刺さって深夜に病院に運ばれたこともありました」

 手がかかった長男が今や、日本を背負って立つ存在に成長した。五輪代表に選出されて臨んだ会見で、塩谷はこう言った。

 「育ててくれた母に、こんな丈夫な体に生んでくれてありがとう。亡くなってしまった父もきっと、天国から見守ってくれている」

 昨年の七回忌。塩谷は徳島の実家に近い高台に父のお墓を建て、納骨した。優しかった父、苦労して育ててくれた母へ-。恩返しの舞台が訪れる。【取材、構成=益子浩一】

 ◆塩谷司(しおたに・つかさ)1988年(昭63)12月5日、徳島県小松島市生まれ。大塚FC(現徳島)ジュニアユースから徳島商に進み高1、2年時にMFとして全国高校選手権出場。国士舘大では無名だったが、同校コーチだった元日本代表DF柱谷哲二氏がJ2水戸の監督に就任することになり11年水戸入り。1年目から活躍し、12年8月に広島へ完全移籍。13年にJ1で2連覇、昨年のJ1制覇に貢献。14年5月に日本代表入り。国際Aマッチ2試合無得点。182センチ、80キロ。