フェンシング女子サーブルのエース江村美咲(21=中大)が21日までに電話取材に応じ、自宅待機中の生活を初めて語った。

3月のW杯ギリシャ大会で3位。同種目で日本初となる2度目のW杯メダル獲得も、東京五輪の代表選考レースが中断し、新型コロナウイルス感染拡大が続く欧州から緊急帰国していた。来夏の金メダルへ、持病の腰椎分離症の克服と、しなやかな動きの習得に努めている。

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欧州を転戦中だった江村は、現地で急拡大する新型コロナに追われるように帰国していた。3月15日に日本へ。当初の帰国予定日だった同24日に、東京五輪の1年延期が決まった。2週間の自宅隔離中で「冷静に受け止められた。動揺もなく、準備期間が増えるというポジティブな思考でもなく。みんな条件は同じ。開催がいつになっても、一切の文句を言うことなく、やれることをやる」。21歳らしからぬ落ち着きぶりだ。

五輪選考レースの中断前は上り調子だった。3月のW杯ギリシャ大会で銅メダル。19歳だった18年米国大会の銀に続き、日本の女子サーブルでは史上初となる2度目のW杯メダル獲得を遂げた。しかも「右太もも裏を肉離れしていた」状態で。1月のグランプリ・カナダ大会で負傷し、MRI検査で多量の内出血が確認されたが、3月は団体戦の出場権争い大詰めだった。痛くても休めない。「ポイントが懸かってなければ欠場していたと思う。でも、どうしても団体戦の自力出場を勝ち取りたくて。それと、個人戦は次の試合が本番と思っていたのでリラックスできたのかもしれない」。覚悟で開き直れた結果の2年ぶりメダルだった。

その「次の試合」は最終戦のW杯ベルギー大会。イタリア合宿で備えて向かうはずだった。しかし、現地は感染爆発の真っただ中。2週間の予定が1泊しかできず、急きょ先乗りしたベルギーでは混乱を肌で感じた。「コロナー!」。宿舎周辺を代表チームで散歩していた際、大声で叫ばれた。地元住民だった。「アジア人だからか…肩身が狭かった」。普段では、あり得ない経験。それでも、人と会えただけ良かったのかもしれない。以降は飲食店が次々と閉鎖していき、街から人が消えた。集大成のW杯も当然中止となった。

あれから1カ月半になる現在も自宅待機が続く。変わらず鍛え続けているのが体幹だ。18年1月に腰椎分離症を患って以来、カーヴィーダンス考案者の樫木裕実さんに師事。「気をつけないと、すぐ悪化する。完治は難しい」という患部を地道に補強してきた。「おかげで体の使い方や姿勢を意識するようになった。フェンシングの構えも、猫背の前傾スタイルから改善され、より柔らかく動けるようになった」。その成果が先月の銅メダルだ。「理想の柔らかい動きが試合で初めて出せた。ギリシャでの気付きを次の最終戦にぶつけることができなかったという、もどかしい気持ちはあるけれど、自宅で今できるフェンシングの動きをしたり、剣を握ったり振ったり、動画を見て、何とか維持したい」。制限の中でイメージを膨らませている。

先月15日には世界ランキングの凍結が決まり、3月までの代表選考に関わる積算ポイントが維持された。「最初はゼロからになったら悔しいなと思っていたけど、最近はゼロからでもやるしかないという気持ちになっていた。受け入れるしかないので」。現在24位。負傷の連続で過去最高の7位からは下がったものの、アジア最上位で五輪出場に王手、の立場は守られた。

あとは練習と国際大会の再開を待ち、最後のW杯を表彰台で締めくくる。その先に夢舞台。「今できる準備を含め、東京五輪までの過程すべてに納得したい。サーブルは一瞬の戦い。少しでも迷いがあれば簡単に連続ポイントを許してしまう。この時期を、メンタルも強くする時間にしなければ」。日本のエースが逆境で力を蓄え、来夏の金メダルへ突き進む。【木下淳】

◆江村美咲(えむら・みさき)1998年(平10)11月20日、大分県生まれ。小学校3年の時に競技を始め、中学進学を機にフルーレからサーブルへ転向。高校からJOCエリートアカデミーで学んだ。中大法学部4年。14年ユース五輪(南京)大陸別混合団体で金メダル。16年リオ五輪は4ポイント足りずバックアップメンバーに。17年ユニバーシアード大会(台北)金メダル。18年から全日本選手権2連覇。父宏二さんはソウル五輪フルーレ代表、北京五輪では日本代表監督を務めた。母孝枝さんはエペの世界選手権に出場。170センチ、60キロ。血液型A。