2020年、新型コロナウイルスはスポーツ界を激動の1年にした。東京オリンピック(五輪)・パラリンピックの延期が象徴的。五輪開幕1年前の7月23日には競泳の池江璃花子が1人で国立競技場に立ち、来夏の開催へ希望の聖火を天に掲げた。各担当記者がこの1年の話題を「2020 取材ノートから」と題し、振り返る。第1回は「東京2020大会延期の舞台裏」を紹介する。

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アテネから西へ約300キロ、車で4時間余りの山村に古代オリンピア遺跡は広がっていた。3月12日、雲ひとつない空を突き抜けた太陽光が、五輪発祥の地を神々しく照らし、聖火の炎が生まれた。

その裏で日本側と国際オリンピック委員会(IOC)のけん制は始まっていた。会合で延期や中止の話題は出ず。組織委幹部はIOCバッハ会長らの名を挙げ「日本の政治家よりしたたかだ」と漏らした。

自ら「延期」を言い出せば追加経費などの責任が降りかかる。バッハ氏は「違うシナリオも検討」「延期は簡単ではない」と微妙に言い回しを変え日本側の出方を待った。IOC関係者は「IOCは興行保険に入ってる。中止の方がもうかるんじゃないか」と冗談交じりに言った。

一方の日本側は是が非でも中止は避けたい。そのためにも聖火を日本へ持ち帰りたかったが暗雲が垂れこめた。翌13日、ギリシャ国内での聖火リレーが観客殺到のため中止。17日には組織委の森喜朗会長らがアテネで行われる聖火引き継ぎ式への渡航を断念した。それでも組織委は同日、聖火出発式(26日)の取材案内を報道各社に発出。武藤敏郎事務総長もリレー中止は延期が決まるまで口が裂けても言わなかった。

一方の東京・晴海の組織委オフィス。役員室フロアの廊下を数十人の記者が埋め尽くしていた。会見場は関係者も含め100人超の密状態。聖火到着式の無観客など相次ぐ縮小発表が“Xデー”へのカウントダウンのようだった。

22日、日曜日。誰もいないビルに黒塗りの車が着く。午後9時過ぎから森会長やバッハ氏が極秘電話会談し「延期の議論は避けられない」で一致。24日夜、延期を発表。組織委の現場もその2時間前まで聖火を「走者」ではなく「車」で運ぶと会見で伝える準備をしていたほどの急転劇だった。

ただトップは延期のカードを持ち続けていた。安倍晋三前首相は10月、日刊スポーツのインタビューでこう明かした。延期の同意を取り付けた3月13日のトランプ米大統領との電話会談よりだいぶ前から、延期の腹案はあったと。

「我々が揺らいだらバッハは喜んで中止を選択しただろう」と組織委幹部。表では聖火の日本輸送を進め、裏で延期のシナリオを同時並行させる。この手法で近代五輪124年で初の延期をIOCに決断させたが、国内の機運はいまだ低空飛行。この延期工作が評価されるかは来夏、国立に聖火がともった時、明らかになる。【三須一紀、木下淳】

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