【高校野球トーーク!/西武データベース編1】聖地、地方大会…高校時代の秘蔵20枚

プロ野球選手はかつて高校生でした。何かのご縁があって、高校球児としての彼らを日刊スポーツ記者が取材させていただいたケースも少なくはありません。ピコピコピコと会社のデータベースをのぞいてみると、担当する埼玉西武ライオンズの選手たちの青春も、あちこちに。少しだけですが、2回に分けておすそ分けします。

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▼「高校野球トーーク!」▼

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おかわり、外崎、光成…全10選手の物語

思うがままに話す人。照れたり、反抗期だったり、そもそも話すことに不慣れだったりで本音を出さない人。高校野球取材は大学を卒業したばかりの新人記者が担当することも多い。

それでもプロ野球選手になった今では想像できないようなエピソードが記事の数々を彩る。テレビカメラが介在しない、人と人との1対1のぶつかり合い。スタンドを駆け回って仕入れた逸話。記事にもどこか汗と感情が踊る。


93年夏、大阪大会。PL学園のエース、松井和夫(現在は稼頭央)が東住吉工に2安打完封勝利を飾った。肩や肘を痛め、春先まではホームベースに球が届かなかった。

先輩の桑田真澄投手以上との声もあった。最後は決勝で近大付に敗れた。「もう、まっすぐしか投げられなかったです」。握力がなくなっていた。

大阪大会決勝の近大付戦に登板したPL学園松井稼頭央。「まっすぐしか投げられない」状態で力投したが敗れた=1993年8月

大阪大会決勝の近大付戦に登板したPL学園松井稼頭央。「まっすぐしか投げられない」状態で力投したが敗れた=1993年8月

97年夏、甲子園。2年生ながら日南学園(宮崎)の中心打者だった赤田将吾は、練習中に憧れの人に出会った。

同じ鹿児島・大崎町出身の日本生命・福留孝介選手だ。日生グラウンドで練習していたところ、金属バットを贈られた。

「このバットの芯に当てる練習をして、夏また来ます」。翌年も“松坂世代”を代表する打者の1人として、夏の甲子園をわかせた。

日南学園の赤田将吾は「福留バット」で練習を積んだ=1997年

日南学園の赤田将吾は「福留バット」で練習を積んだ=1997年

横浜高校エースからの直筆メッセ

その98年夏、甲子園。PL学園(大阪)の平石洋介は主将として、三塁コーチャーとして、横浜(神奈川)と伝説の死闘を繰り広げた。

その春まで監督を務めた中村順司氏への思いも力に変えた。左肩を手術。キャッチボールのたびに、監督は付き添ってくれた。

「二度と故障しないよう、僕の動き1つ1つに気を配ってくださいました。常に言われた『感謝の気持ち、謙虚な気持ちを大事に』という言葉を、僕は忘れることはありません」

第80回全国高校野球選手権大会準々決勝横浜戦の11回裏、PL学園・平石洋介が同点のホームイン。右端に写っている横浜・松坂大輔投手と熱戦を繰り広げた=1998年8月20日

第80回全国高校野球選手権大会準々決勝横浜戦の11回裏、PL学園・平石洋介が同点のホームイン。右端に写っている横浜・松坂大輔投手と熱戦を繰り広げた=1998年8月20日

99年夏、埼玉大会。埼玉栄の大島裕行は高校通算86本塁打をマークした。帽子のひさし裏にメッセージがあった。

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1980年11月、神奈川県座間市出身。法大卒、2003年入社。
震災後の2012年に「自転車日本一周」企画に挑戦し、結局は東日本一周でゴール。ごく局地的ながら経済効果をもたらした。
2019年にアマ野球担当記者として大船渡・佐々木朗希投手を総移動距離2.5万キロにわたり密着。ご縁あってか2020年から千葉ロッテ担当に。2023年から埼玉西武担当。
日本の全ての景色を目にするのが夢。22年9月時点で全国市区町村到達率97.2%、ならびに同2度以上到達率48.2%で、たまに「るるぶ金子」と呼ばれたりも。