【山隈太一朗〈3〉】SP落ちに無謀4回転…迷走のち、父とのやけ酒談議で目が覚めた

日刊スポーツ・プレムアムでは、毎週月曜日にフィギュアスケーターのルーツや支える人の思いに迫る「氷現者」をお届けしています。

シリーズ第10弾は、明治大を卒業したばかりの山隈太一朗(22)を連載中。シリーズ最長? となる5時間に及ぶロングインタビューの第3回は、大学1~3年を紹介します。

2年時の20年12月、全日本選手権(長野)で〝ショート落ち〟し、母から「死」まで心配された過去、その屈辱から立ち直るきっかけとなった父とのやけ酒、スケーティングのスタイル転換について回想します。(敬称略)

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明治大学入学式(本人提供)

明治大学入学式(本人提供)

明大進学も「踏んだり蹴ったりの1年目」

19年4月、山隈は明治大に進んだ。インターハイ王者の期待を受けて。

「高校3年の時、ものすごくいい締めくくりができた、がゆえに『今年が大事だよ』って、すごく周りから言われて結果を求めにいった1年目でしたね。空振りに終わりましたけど(笑い)」

多分に漏れず、上京して変わった環境への適応に時間がかかった。

「朝練なんて毎日したことなかったので、すごくしんどくて。しかも伏見(東京・東伏見)のリンクが工事で閉まっちゃって、遠い場所まで毎朝、電車で通うことになったんですけど、かなりつらくて。地元では車だったので、電車、しかも東京の電車はストレスだったし、朝練は体が動かないし、もうほとんど行けなくなってしまいましたね。夜練だけ行ってたんですけど、それだと1日45分間しかない。シニアらしく、効率良く中身の充実した練習にしようと思ったら、それも無理。だんだん追いつかなくなってきて、でも高校日本一だし、結果を出そうと全く現実を見ていない練習を続けてしまいました」

ジュニア時代、意地の維持を続けてきた強化選手からも、ついに外れた。

「今やるべきはそこじゃない、って練習ばかり続けてしまって。ジャンプの精度は上がらないし、成績も中途半端。インフルエンザで出られなかった大会もあったし、踏んだり蹴ったりの1年目になりました」

振り返ると、慣れない生活の変容に心身が追いつかなかった。

「もう常に、めまいと立ちくらみが治らなくて。病院に行ったら心配されるので我慢してたんですけど、家で1人で、いすから立ち上がった時に倒れたり。当時の自分は全然ストレスとか感じてないと思ってたんですけど、ものすごく強がってる自分がいただけで。『俺は1人でもやっていける』なんて思いながら、実はフラフラで。大事な1年目なので『きっちり、いいプログラムに仕上げてやる!』みたいな、そういう思いだけがあって。そのせいで全然、臨機応変な対応ができなかったなって。健康的なところにも目をつぶっていたし、当時は自分なりにベストを尽くしていたはずなんですけど、何か1年目は、強がって終わっちゃいましたね」

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スポーツ

木下淳Jun Kinoshita

Nagano

長野県飯田市生まれ。早大4年時にアメリカンフットボールの甲子園ボウル出場。
2004年入社。文化社会部から東北総局へ赴任し、花巻東高の大谷翔平投手や甲子園3季連続準優勝の光星学院など取材。整理部をへて13年11月からスポーツ部。
サッカー班で仙台、鹿島、東京、浦和や16年リオデジャネイロ五輪、18年W杯ロシア大会の日本代表を担当。
20年1月から五輪班。夏は東京2020大会組織委員会とフェンシング、冬は羽生結弦選手ら北京五輪のフィギュアスケートを取材。
22年4月から悲願の柔道、アメフト担当も。