「植村直己賞」冒険家・阿部雅龍の生きざま 先人も断念した南極「白瀬ルート」に挑む

4月22日に発表された2021年の「植村直己冒険賞」に、冒険家の阿部雅龍さん(39)が選ばれた。困難に立ち向かい続けて生きる冒険家の思い、生きざまに迫る。

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2021「植村直己冒険賞」を受賞して会見に臨む阿部雅龍さん(撮影・首藤正徳)

2021「植村直己冒険賞」を受賞して会見に臨む阿部雅龍さん(撮影・首藤正徳)

◆阿部雅龍(あべ・まさたつ)1982年(昭57)12月29日、秋田市生まれ。秋田中央高-秋田大。大学在学中から冒険活動を開始。冒険家・大場満郎氏に師事。すべて人力単独行。290日かけて1万924キロを走破した06年の南米大陸単独自転車縦断を皮切りに、カナダ北極圏単独徒歩500キロ、グリーンランド北極圏単独徒歩750キロなどを達成。19年に日本人初踏破となる918キロに及ぶメスナールート南極点単独徒歩到達を達成した。東京・板橋区在住。

109年ぶり南極「白瀬ルート」

「植村直己冒険賞」に選ばれた阿部さんは、昨年11月から前人未到の「白瀬ルート」による約1300キロに及ぶ南極点単独徒歩到達に挑戦した。

今年1月にコロナ禍の影響による活動期間短縮や天候の悪化などにより約780キロ地点で断念したが、最難関ルートで夢に挑む勇気と行動力が評価された。11月には中断地点から再挑戦を表明している。

「白瀬ルート」は1912年(明45)に軍人で探検家の白瀬矗(しらせ・のぶ)を隊長とする探検隊が、南極点を目指したルート。

4000メートル級の南極横断山脈が立ちはだかり、クレバス(雪の裂け目)が点在する。白瀬隊は南極の「大和雪原」と命名した一帯で前進を断念した。

昨年11月、阿部さんは109年ぶりに、「大和雪原」を起点に、1300キロに及ぶルートで南極点を目指した。

阿部 「同じ秋田出身の白瀬隊の見果てぬ夢を追っての南極点到達は、冒険を志した頃からの夢でした。19年にメスナールートで南極点に到達していますが、過去の遠征で達成しても感動して泣いたことはありません。そこは常に通過点だったから」

18年に及ぶ冒険人生の集大成ともいえる夢の実現へ、支援者らから1億円近い資金も集まった。

初めての途中撤退に涙

しかし、挑戦は想定外の悪条件が重なった。

コロナ禍で飛行機の出発が遅れるなど、活動期間が予定より約20日も短縮された。

巨大なクレバス帯を迂回(うかい)するため、約100キロも距離が伸びた。

そこに悪天候が続いた。それでも、毎日12時間、約150キロのソリを引き続けた。

阿部 「コロナの影響で南極のベースキャンプの開設が1週間以上遅れたのが非常に大きかった。雪が思った以上に軟らかくて、頑張っても、頑張っても距離が稼げず、体力的にも精神的にも苦しめられた」

最難関ルートが牙をむき、悪条件が重なった。

今年1月11日、54日間で780キロ進んだところで中断を決めた。南極が冬季に入るため、迎えの航空機の終了期間が迫ったためだ。

冒険人生で初めての途中撤退だった。

南極を出る飛行機の中では涙が止まらなかったという。

「人生最大の失敗」と本人も断言する。しかし、それでもくじけないのが冒険家の真骨頂。

阿部 「20年近く目指してきた挑戦を撤退するのは本当に辛く、苦しかった。非常に厳しい遠征でした。でもやっぱり自分がやっていることが、自分は好きなんだと再確認しました。また、ここに戻ってきたいと強く思いました。それは、新たな発見でもありました」

1988年入社。ボクシング、プロレス、夏冬五輪、テニス、F1、サッカーなど幅広いスポーツを取材。有森裕子、高橋尚子、岡田武史、フィリップ・トルシエらを番記者として担当。
五輪は1992年アルベールビル冬季大会、1996年アトランタ大会を現地取材。
2008年北京大会、2012年ロンドン大会は統括デスク。
サッカーは現場キャップとして1998年W杯フランス大会、2002年同日韓大会を取材。
東京五輪・パラリンピックでは担当委員。