【伏見工業の今】消えゆく校舎 復活の足音とともに京都工学院に受け継がれる精神

40年以上が過ぎた今、あの頃の光景は変わり果てていた。定時制だけが残る伏見工業高校のグラウンドは、来年の春には姿を消す。ただ、どれだけの歳月が流れても変わらないものがあった。紅と黒のジャージーに身をまとった生徒の思い。校名が京都工学院になっても不変の「信は力なり」-。彼らの今を追った。(敬称略)

ラグビー

<スクール☆ウォーズのそれから>

ロッカールームで心を奮い立たせてグラウンドへ出て行く

ロッカールームで心を奮い立たせてグラウンドへ出て行く

通路に響く歌声~信は力なり~

薄暗い通路に歌声が響いていた。

コンクリートに包まれたロッカールーム。京都工学院の部員が、狭い部屋に集まった。

2023年11月12日、京都の碁盤の目の北にある宝が池球技場。

間もなく冬の花園出場をかけた全国高校ラグビーの京都府予選・決勝戦が始まろうとしていた。

令和になった今でも、その空間だけが40数年前と変わらないような錯覚に陥る。

むせび泣く声とともに、力強く、決意に満ちた部歌である「紅歌」が流れる。

「我ら紅を纏(まと)いて~信は力なり 

いざゆこう~ 逞しく~

滾(たぎ)る勇気と共に

何の為だと 誰の為だと

胸に問え 

我ら紅を纏いて~信は力なり

我ら紅を纏いて~信は力なり」

終わると同時に鉄製の扉が開く。

監督の大島淳史とともに、選手たちがグラウンドへ飛び出して行った。

決戦の地へ―。この先には、メンバーに入らなかった仲間たちが待っている

決戦の地へ―。この先には、メンバーに入らなかった仲間たちが待っている

会場には大勢の観客が詰めかけていた。

メインスタンドの中央。

かつて“泣き虫先生”と呼ばれた人はそこにいた。

伏見工業のOBたちに囲まれ、じっとグラウンドを見つめていた。

2015年度以来の花園をかけた戦いが始まった。

80歳になった今でも、思いは変わらない。

得点が決まれば喜び、点を奪われれば拳を握りしめて悔しそうな顔をする。

人生をこのチームとともに歩んできたのである。

今年こそ、今年こそ-。

ここ数年はそうやって決勝戦に臨み、涙をのんできた。

客席から見守る元伏見工業の山口良治監督(中央)

客席から見守る元伏見工業の山口良治監督(中央)

〝あの人〟と重なる1年生SO

ただ、例年になく、復活への道筋が見えた年だった。

フォワードは力で宿敵の京都成章を上回り、8シーズンぶりの聖地は手の届くところにあった。

オールドファンなら、あの頃と思いを重ねる。

そして、1年生のスタンドオフ(SO)は、どうしてもあの人を思い出させるのである。

ドラマはまだ終わらない。

伏見工業がなくなっても、その主役たちがこの世を去っても。

それを引き継ごうとする人がいる限り-。

彼らの今を、描く。

1981年1月、全国高校ラグビーで伏見工業は大阪工大高を破り初優勝する。左から2番目が中心選手だったSO平尾誠二

1981年1月、全国高校ラグビーで伏見工業は大阪工大高を破り初優勝する。左から2番目が中心選手だったSO平尾誠二

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編集委員

益子浩一Koichi Mashiko

Ibaraki

茨城県日立市生まれ。京都産業大から2000年大阪本社に入社。
3年間の整理部(内勤)生活を経て2003年にプロ野球阪神タイガース担当。記者1年目で星野阪神の18年ぶりリーグ制覇の現場に居合わせた。
2004年からサッカーとラグビーを担当。サッカーの日本代表担当として本田圭佑、香川真司、大久保嘉人らを長く追いかけ、W杯は2010年南アフリカ大会、2014年ブラジル大会、ラグビーW杯はカーワンジャパンの2011年ニュージーランド大会を現地で取材。2017年からゴルフ担当で渋野日向子、河本結と力(りき)の姉弟はアマチュアの頃から取材した。2019年末から報道部デスク。
大久保嘉人氏の自伝「情熱を貫く」(朝日新聞出版)を編集協力、著書に「伏見工業伝説」(文芸春秋)がある。