【ブルーペナント〈14〉上編】菅原由勢「屋台」で育ったダイナミックな小学生

「ブルーペナント」。その存在を知っている人はどれぐらいいるでしょうか。日本サッカー協会(JFA)が「育成年代の指導者への敬意として」行っている日本代表・育成指導者表彰制度のことです。2026年FIFAワールドカップ(W杯)北中米大会を目指すDF菅原由勢(25=ブレーメン)は、「屋台」のような公園のサッカースクールから生まれました。幼稚園から小学校卒業まで9年近く指導した「育ての親」で、ASラランジャ豊川(愛知)の宮澤淳代表(45)が、躍動感あふれる右サイドバックの源流について語りました。2回連載でお伝えします。

サッカー

◆菅原由勢(すがわら・ゆきなり)2000年(平12)6月28日、愛知県豊川市生まれ。AS.ラランジャ豊川から名古屋グランパスU-15に加入。気鋭の右サイドバックとして名を馳せ、同U-18所属の18年2月に2種登録。同月24日のガンバ大阪とのリーグ開幕戦でフル出場。17歳7カ月27日での開幕スタメンは稲本潤一に続く歴代2位の年少記録。19年6月にオランダ1部AZアルクマールに期限付き移籍し、20年から完全移籍。24年7月にプレミアリーグのサウサンプトンへ完全移籍。25年8月にブンデスリーガ1部のブレーメンへ期限付き移籍。日本代表は20年10月に初選出され、同9日のカメルーン戦でデビュー。国際Aマッチ18試合2得点。179センチ、69キロ。


◆宮澤淳(みやざわ・あつし)1981年(昭56)1月1日、愛知県刈谷市生まれ。刈谷工卒業後、ブラジル・サンパウロ州のタナビでプロ契約。帰国後はプロクラブの練習に参加するも契約に至らず、指導者に転身。2003年にAS.ラランジャ豊川を設立し、23年の指導歴でプロ選手4人を輩出した。21年にクラブを一般社団法人とし、現在は3歳から15歳まで指導。毎年スペイン遠征を実施しており、同クラブはバルサアカデミー愛知校として指定されている。指導者A級ライセンス保持。

日本代表DF菅原から贈られたブルーペナントを手にする宮澤淳さん

日本代表DF菅原から贈られたブルーペナントを手にする宮澤淳さん

ブラジルから帰国後に指導者へ転身

「屋台みたいなもんですね」

約23年前、宮澤代表は自身が立ち上げたサッカースクールをこう例えた。

愛知・刈谷工を卒業後、プロサッカー選手を目指した。しかし日本ではなれなかった。ブラジルへ渡った。サンパウロ州のタナビで1シーズンちょっとプレーし、帰国したのが2003年。その後、プロクラブの練習に参加したが断念した。

「現役は寿命があるけど、指導者に寿命はない」

その言葉を受け、若くして指導者へ転身。地元の刈谷はサッカーどころで競争が激しかった。そこで市場調査した結果、平日のスクール活動がなかった豊川に新天地を求めた。

AS.ラランジャ豊川。そのチーム名は自身が所属していた関西リーグの「AS.ラランジャ京都」からの暖簾(のれん)分けだという。同クラブの代表で、名古屋グランパスでテクニカルディレクターも務めた上田滋夢氏との縁から。高校時代に知り合い、宮澤さんにとってはサッカー人生の恩人。ラランジャはそんな背景から始まった。

「公園を使ったり、そのへんのグラウンドを借りたりして、最初は子どもも3人とか5人でした。僕は車にコーンとかバーとかミニゴールとか積んでやってきて、よしやるぞみたいな感じで、屋台みたいなものです。出前というか」

楽しげな雰囲気に誘われて、菅原もやってきた。

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スポーツ

佐藤隆志Takashi Sato

Tokushima

1968年(昭43)生まれ、徳島県出身。91年入社。
希望したスポーツ部に在籍し、2010年サッカーW杯南アフリカ大会、12年ロンドン五輪など取材。デスクを経て現場に戻り、再び大好きなサッカーを取材、執筆しています。
少年時代に読売クラブのジョージ与那城のプレーに魅了され、同じくヒゲをはやしたバルデラマ(コロンビア)のトリッキーなプレーにハートをわしづかみにされる。フリット(オランダ)は憧れの偉人。好きすぎて入社後に髪型をまねたところ「ドレッド」と呼ばれたのは懐かしい思い出です。
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