【ブルーペナント〈16〉前編】小川航基 情熱あふれる指導受けた桐光学園での3年間

今夏のワールドカップ(W杯)北中米大会を目指す日本代表選手の源流をたどる連載「ブルーペナント」。FW小川航基(28=NECナイメヘン)をストライカーとして大きく育んだのは、高校サッカーでした。中学時代は中盤でプレーしたが選抜歴はなく、目立った選手ではありませんでした。しかし福岡、鳥栖などでプレーした元Jリーガーの桐光学園の鈴木勝大監督(48)によって点取り屋の資質を見いだされ、情熱あふれる指導によって劇的な成長を遂げました。その高校3年間の舞台裏を2回に渡って紐解いていきます。

サッカー

桐光学園の鈴木監督

桐光学園の鈴木監督

◆小川航基(おがわ・こうき)1997年(平9)8月8日生まれ、横浜市出身。横浜港北FC、大豆戸FCジュニアユースを経て桐光学園に進学。1、3年時に全国高校サッカー選手権に出場。16年に磐田入り。U-18代表から世代別代表の常連となり、17年にU-20W杯出場(16強進出)。19年はレンタル移籍でJ2水戸に所属。19年12月のE-1選手権で日本代表に初選出。香港代表相手のデビュー戦でハットトリックを達成した。20年から磐田に戻り、22年に横浜FCへ移籍。23年夏にオランダ1部NECナイメヘンへレンタル移籍し、24年夏に完全移籍となった。日本代表で国際Aマッチ13試合10得点。186センチ、78キロ。


◆鈴木勝大(すずき・かつひろ)1977年(昭52)11月26日生まれ、神奈川県横須賀市出身。桐光学園3年で主将として全国高校サッカー選手権に出場。1年下に中村俊輔がおり、同じMFとして活躍。国士舘大では全日本大学選抜入りし、99年ユニバーシアード・マジョルカ大会に出場。20年にJ1福岡入り。01年からJ2鳥栖に所属し、04年途中から当時九州リーグのヴォルカ鹿児島(現J3鹿児島)でプレー。05年から2年間は当時九州リーグのロッソ熊本(現J3熊本)でプレーし、06年限りで現役引退。J1通算2試合0得点、J2通算94試合1得点。指導者に転身し、12年に桐光学園のコーチに就任。13年から監督となり19年のインターハイで全国初優勝を果たし、準優勝も2回(18、23年)。

磐田の入団会見を行ったFW小川(中央)。左は桐光学園の鈴木監督、右は磐田の加藤GM

磐田の入団会見を行ったFW小川(中央)。左は桐光学園の鈴木監督、右は磐田の加藤GM

「もう帰れ!」御殿場から強制帰宅

獅子はわが子を千尋の谷に落とす―。

世代別代表だろうと関係ない。熱血指揮官は常に厳しく、愛弟子と向き合った。

「アイツとはバトルをしたことがあります。そういったことで僕自身も考えさせられたり、彼も考えることによって成長できることがいくつかあったのかなっていうのはありますね」

鈴木監督とエースでありキャプテンの小川は、折に触れてぶつかった。

2015年2月、静岡・御殿場で行われていた強化試合でのことだ。

「土曜日に試合して、宿泊して、また日曜日にも試合するんですけど。その土曜日の取り組みが気に食わなかったので、帰しました」

その年の1月、U-18日本代表のロシア遠征に初招集され、大きな自信を胸にチームに戻っていた。

「ちょっと代表に入って少しプレーが横柄になったかなっていうのと、チームのためにリーダーとしてもっと謙虚に、誠実にやらなきゃいけないというメッセージも含めて〝もう、お前帰れ〟って言って帰しました」

指揮官からカミナリが落ちた。その衝撃は小川にとって計り知れないものだっただろう。

キリンチャレンジカップ2025 日本対パラグアイ サポーターに笑顔で手を振る小川(撮影・上田博志)

キリンチャレンジカップ2025 日本対パラグアイ サポーターに笑顔で手を振る小川(撮影・上田博志)

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スポーツ

佐藤隆志Takashi Sato

Tokushima

1968年(昭43)生まれ、徳島県出身。91年入社。
希望したスポーツ部に在籍し、2010年サッカーW杯南アフリカ大会、12年ロンドン五輪など取材。デスクを経て現場に戻り、再び大好きなサッカーを取材、執筆しています。
少年時代に読売クラブのジョージ与那城のプレーに魅了され、同じくヒゲをはやしたバルデラマ(コロンビア)のトリッキーなプレーにハートをわしづかみにされる。フリット(オランダ)は憧れの偉人。好きすぎて入社後に髪型をまねたところ「ドレッド」と呼ばれたのは懐かしい思い出です。
Xのアカウント名は、佐藤隆志@サカバカ日誌
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