今回の【敢闘門】に登場するのは、日本競輪学校校長の滝沢正光氏。現役時代は当時のG1タイトル5つ全て勝ってグランドスラマーになり、KEIRINグランプリ(GP)を2度制した。『怪物』のニックネームでファンを魅了した。昭和から平成を駆け抜け、後進を指導する令和の今に何を思うのか?

滝沢正光・日本競輪学校校長が、トラック競技支援G3開催中の伊東競輪場で熱く語る(撮影・野島成浩)
滝沢正光・日本競輪学校校長が、トラック競技支援G3開催中の伊東競輪場で熱く語る(撮影・野島成浩)

ひょんなことから、滝沢氏にお話をうかがいたくなった。伊東G3(4月25~28日)に行く前日のこと。わが家の押し入れから、お宝が出てきた。それは伊東開設41周年記念後節の決勝ゴールパネル。学生の頃に『プロスポーツ』の広告欄にあった懸賞に当たって、伊東市役所からいただいた物だ。緑赤の9番車は滝沢選手。無精ひげがある。左上には「夢」と添えたサインがある。「H・4・3・10」とあるから平成4年(92年)で27年前。懐かしいなと思いながら考えた。伊東に持っていけば何かあるかも? すると所用で伊東競輪場を訪れた滝沢氏にお会いできたんです。

記者のお宝。学生時代に伊東市役所の懸賞で当てた伊東開設41周年後節優勝ゴールパネル(撮影・野島成浩)
記者のお宝。学生時代に伊東市役所の懸賞で当てた伊東開設41周年後節優勝ゴールパネル(撮影・野島成浩)

滝沢氏にパネルをお見せすると「これは何? 勝っているのはオレじゃないかっ」と声を弾ませた。眼鏡をずらし、隅からから隅まで目を凝らす。「白い1番車は中野(浩一)さん。緑の8番車は清嶋(彰一)さんだな。フォームがそうだもん。オレは1車身以上も差をつけている。強かったんだ。こんないい頃もあったんだ」と笑い飛ばした。

パネルの左側を拡大。当時の9番車は緑赤。左上部には、滝沢選手が「夢」と添えたサインも映されている(撮影・野島成浩)
パネルの左側を拡大。当時の9番車は緑赤。左上部には、滝沢選手が「夢」と添えたサインも映されている(撮影・野島成浩)

JKAの資料には次のように記されている。

白 <1>中野浩一 2着

黒 <2>高木隆弘 4着

赤 <3>神山雄一郎6着

青 <4>内林久徳 9着

青白<5>小林 覚 5着

黄 <6>田村博一 7着

黄黒<7>俵 信之 8着

緑 <8>清嶋彰一 3着

緑赤<9>滝沢正光 1着

「31歳のときで、中野さんはこの年の宮杯(現・G1高松宮記念杯)で引退した。宮杯の優勝はオレで、中野さんが2着。3着は井上(茂徳)さん。3人で一緒の表彰台は最初で最後だった」。どんどん記憶がよみがえるが、「ただ、この伊東は展開が思い出せないな。体は動いていたのは確か。でも、どうやって勝ったっけ?」。自然と話はレーススタイルに移った。

滝沢校長が「白の1番車は中野(浩一)さんで緑の8番車は清嶋(彰一)さん。2番は誰?」と記憶をたどる(撮影・野島成浩)
滝沢校長が「白の1番車は中野(浩一)さんで緑の8番車は清嶋(彰一)さん。2番は誰?」と記憶をたどる(撮影・野島成浩)

79年(昭54)4月にデビューし、徹底先行で売り出した。吉井秀仁や鈴木誠、山口健治らとのフラワーラインを引っ張った。そして84年3月日本選手権で初のG1制覇。「若い頃はがむしゃらにやっていた。少しずつ力が付いて、それをレースで問答無用に出せればいいと思っていた」。ひたすら逃げる『剛』の走りで、『柔』とばかりダッシュする中野浩一や鬼足・井上茂徳ら九州勢を封じた。

キャリアハイは87年(昭62)だろう。G1オールスターまで13場所連続優勝の記録を打ち立て、G13勝とGPも制した。賞金王にもなり、その座は翌年まで4年連続で守った。

数々の力勝負を演じた昭和から、時代は平成に変わると自在性が目立った。中団まくりやイン粘りを多用した。前記の92年宮杯(平4)は、逃げた神山雄一郎のイン粘りから番手まくりで勝った。まくり上げた中野と井上の強襲を防いだ。「出力が弱くなったと分かり、うまくやろうと考えた。前で頑張ってくれる人がいて、番手や3番手も増えた。オレが自在に動いたのは、苦戦しそうでも何とかやりくりしたかったから。お客さんが何を期待してくれているのか常に考えたから。どういうレースで勝ってほしいのかね。今、最も考えて走っているのは村上義弘君だろうね」。2度目のGP制覇(93年平5)は高木隆弘と鈴木誠に前を任せ、最終バック6番手から直線で強襲して勝った。

そしてA級陥落が迫った08年(平20)6月に引退した。最後になった富山G3最終日一般では単騎で逃げて8着(8車立て)。滝沢選手は、最後までその姿を全うした。

滝沢校長がパネルを手にして「オレ、強かった」と感慨にふける(撮影・野島成浩)
滝沢校長がパネルを手にして「オレ、強かった」と感慨にふける(撮影・野島成浩)

競輪界は変化を止めることなく今に至っている。7車立てのミッドナイト開催やガールズケイリンが好評を博し、ビッグレースではナショナルチームが席巻する。滝沢氏は校長になった10年(平22)4月からも考えは一貫している。「お客さまは圧倒的にご年配の方、オールドファンが多い。もちろん、新しいファンも増えている。どちらにも楽しんでいただけるようにしたい。選手にはその走りで、自分自身を表現してもらいたい。時代は様変わりしているが、変わってはいけない部分がある。選手の仕事はお客さまを思って走ること。わたしは、お客さまを喜ばせる選手をもっと育成したい」。取材中に、滝沢氏は何度もファンへの思いを口にした。昭和から平成、そして令和へ。滝沢氏は変わらず夢の実現を追い求めている。(敬称略)【野島成浩】

滝沢校長(左)が自身の現役時代を思い起こさせる村上義弘。村上が制した昨年10月「滝沢正光杯」千葉G3in松戸表彰式のひとこま(撮影・野島成浩)
滝沢校長(左)が自身の現役時代を思い起こさせる村上義弘。村上が制した昨年10月「滝沢正光杯」千葉G3in松戸表彰式のひとこま(撮影・野島成浩)