平成最後の「KEIRINグランプリ」が30日、静岡競輪場で行われる。今回で歴代2位となる11回目の出場を果たす村上義弘(44=京都)が、2回の優勝を含めたこれまでのGPの思い出、そして競輪の未来を熱く語った。3回連載で送る。(聞き手・栗田文人)

忘れもしない、04年11月大垣の全日本選抜優秀戦での落車で、脳内出血や左股関節の腱(けん)が切れるなどの大けがを負った。この影響で、今でも右足に比べると、左足の方はうまく上がらない。それでも、GPが約1カ月後に迫っていたことで無理をしてすぐに練習を再開したのだが、今から考えれば、後々に大きく響いた。

自分でも驚くぐらい、日に日に体が動かなくなり、すべてが悪い方に悪い方にと流れる。この年のGPは4着に終わり、その後、体力の衰えや戦法の迷いなどもあって、翌年から5年間もGPに出られなくなった。特に悔しかったのが05年当時で、この年のGPはテレビで見たくなくて、レースが行われている時間帯に京都・亀山の山の中に入って、暗くなるまで練習していたことを思い出す。

苦しい時を経て6年ぶりに出場した10年。初めて弟博幸と乗り、しかも弟が自分の番手を回って勝つという出来すぎた物語のようなことが起きた。この時はたまたま母も見に来ていたこともあって、自分が優勝できなかったことなどはすっかり忘れて「こんなことが本当にあっていいのか?」と不思議で仕方なかった。そして翌々年の12年、ようやく自分にも歓喜の瞬間が訪れる。

今でもすぐに思い出せる。この年の12月16日の練習中にバイク誘導をしていて落車し、右の肋骨(ろっこつ)を3、4本骨折した。落車直後に頭に浮かんだのは「GPまでちょうど2週間か…」。当然、痛みはあったが、すぐに気持ちは切り替わった。30日のレース当日は「自分の力を出し切るだけ。位置を取り、体が反応する瞬間に行くだけだ。頭よりも体が一番自分のことを知っている」と迷いはなかった。

結果的に深谷知広-浅井康太の3番手からまくって勝ったのだが、当時の深谷はずばぬけていて、今でも「なぜまくれたのか」と思う。勝ったことはもちろんうれしかったが、仮に勝てなかったとしても、頭より先に体が反応したことがうれしかった。GPという舞台で納得のいくレースがしたかっただけ。その気持ちが優勝につながったのかな、と思う。ステータスうんぬんではなく、GPは日本選手権とはまた別物の頂点を決めるレース。若いころから「日本一になりたい」と思ってやってきて、その目標が達成された瞬間だった。喜びはかけがえのないものだ。

そして16年。同郷の後輩の稲垣裕之に乗って2勝目を挙げることができた。あの年は3月名古屋の日本選手権を勝ってGP出場権は得られたが、10月の寛仁親王牌まではGPは単騎で戦うつもりだった。それが、親王牌を稲垣が勝ったことで、番手を回ることに。自分の体も仕上がっていたし、メンバーを見渡すと、タテのレースになることが濃厚。そんな読みも当たって勝つことができた。あの時はいろいろなことがうまくかみ合った印象だ。