世間にはまだ知られていない「事件」を初めて明かします。もう16年も前の話です。当時、キャッチしていればベストだったのですが、私も最近ようやく知った事実です。

 99年7月。日本サッカー協会内に、激震が走った。日本代表は同年、南米サッカー連盟に特別招待されて、南米選手権に出場した。ペルーとパラグアイに負けて、最終戦でボリビアに1-1で引き分け、勝ち点1の最下位で1次リーグ敗退した。

 その直後、日本サッカー協会事務局は、当時の日本代表トルシエ監督の言動で大きく揺れることになる。渋谷にあった日本サッカー協会に突然現れた同監督は「協会幹部はいいよな。酒飲んでゴルフするだけで、代表の結果は関係ないもんな」と、わざわざ職員全員に聞こえるように英語で言い出した。

 その言葉に反応したのが、当時の技術委員長・大仁邦弥氏(現日本サッカー協会会長)だった。トルシエ監督の胸ぐらをつかみ「南米選手権で負けたのが、協会のせいなのか?」。2人のつかみ合いのケンカは、誰も止められず、しばらく続いたという。

 内幕はこうだ。日本は南米選手権への出場資格がないが、南米連盟の好意でパラグアイで開催された大会に特別参加した。そのお礼もあり、大会期間中、日本協会幹部らは南米連盟、パラグアイ協会の幹部らとゴルフをして、夜の宴会にも出席した。それがトルシエ監督の目には「酒盛り」と映ったようだ。

 16年が立ち、大仁会長に当時のことを聞くと「そんなことあったっけな。オレが技術委員長の時は、トルシエとしょっちゅうケンカしたことは覚えてるけど、つかみ合ったかな。殴り合いの寸前までいったことは何度もあったよ。トルシエがああいう性格だからな」。

 温厚な大仁氏の性格からすれば、考えられないことだ。だが、自分を変えてまで激しくやり合ったのには、理由がある。外国人監督は、億単位の年俸をもらい任期が終われば、帰ればいい。しかし日本サッカーは、監督が去った後も続く。そのため、監督の管理などにかかわる組織(技術委員会)が、1人の外国人監督に左右されてはいけないからだ。

 日本代表は、その時の監督によって戦術が変わる。第2次岡田体制では、守備重視の速攻で南アフリカW杯16強入りを果たした。続くザッケローニ体制では、ポゼッションサッカーを展開したが、W杯ブラジル大会で惨敗した。その後のアギーレジャパンはポゼッションと速攻をミックスした戦術で、ハリルホジッチ監督は速攻重視。スタイルが変わっても、技術委員会がぶれない信念で強化を図ってこそ、日本代表の進む道がぶれない。

 今はどうか? 6月のシンガポール戦で、霜田技術委員長はスーツ姿でベンチに座った。選手交代時には、交代用紙を持って第4審判のもとへダッシュした。一見、ハリルホジッチ監督の使いっ走りにも映る。技術委員長がベンチに座るのは、極めて珍しいが、霜田氏は「監督から『選手のことをより知っている霜田がベンチに入った方がいい』と言われて、手倉森コーチにはスタンド観戦してもらって僕が座ることになりました。大仁会長からも了承を得ています」と説明する。

 代表強化のため、形にこだわらずに監督を助けようとする技術委員長の姿勢を批判するつもりはない。シンガポール戦に引き分けた数日後、霜田氏は「監督、スタッフが集まり、何度も話し合い、原因を分析した」と話す。

 しかし、現場の分析と技術委員会の分析が同じではいけない。技術委員長が現場に入りすぎると、日本サッカー本来の大筋の判断がぶれてしまうからだ。理想は、日本サッカーの歴史を知る技術委員会で独自の分析をした上、同時に現場にも分析させ、ハリルホジッチ監督を呼びつけ、なんで格下のシンガポールにホームで勝てなかったかを追求すべきだと思う。

 9月には再び予選が控える。「またベンチに座るのか?」の問いに、同委員長は「そのうち、監督から説明があると思います」と明言を避けたが、座る方向のようだ。なら、それでもいいが、忘れないでほしいものがある。

 技術委員長は、監督に対して、日本サッカー界の代表者の資格で接しないといけないことを。そして、その代表者は、長い日本サッカーの歴史を背負っている重責であることを。なにより、技術委員長は、監督を解雇する権限を持っている大事なポストであることを。

 ◆盧載鎭(ノ・ゼジン) 1968年9月8日、韓国・ソウル生まれ。96年からサッカーを担当。98年フランス大会から14年ブラジル大会まで、4度W杯取材。06年ドイツ大会は代表落ち(代表取材の社内競争は激しいのです)。現在、胃潰瘍で酒量がかなり減りました。2児のパパ。