野球界では「KK世代」「松坂世代」「ハンカチ世代」など、秀でた選手の名前や愛称をとって、学年を示す言葉が生まれる。サッカー記者として私は「川口能活世代」と名乗ろうと心に決めた。

 同じ1975年(昭50)生まれの42歳。W杯ロシア大会アジア最終予選サウジアラビア戦(9月5日)の試合会場ジッダを、川口はオシムジャパン時代に経験しているため、当時の様子を聞きたく、SC相模原の練習場に向かった。

 静岡・清水商時代から日本代表での活躍など、現場やテレビで何度も見てきたが、取材対象としては初対面だった。練習終わりに名刺を差し出し「日刊スポーツの鎌田と申します」。さっと両手に持っていた荷物を両脇に抱え、両手で名刺を受け取る姿勢。第一印象は最高だった。

 日本人としては唯一のW杯4大会出場。代表での主将経験もある。高校時代は全国制覇、Jリーグでも横浜マリノス2年目で日本代表GK松永から守護神の座を奪取。日本人GKとして初の欧州移籍。経歴はすごすぎる。正直、「テレビなどではとても感じの良い選手だけれども、もしかしたら、いきなり行って、初めて顔を合わせる人には、ちゃんと話もしてくれないんじゃないか? そんな人だったら嫌だなあ…」なんて不安な気持ちもあった。

 だが、180度違った。10年前の記憶をしっかりたどって「今まで経験してきたアウェーの中でもジッダは暑さも湿気も一番きつかったかもしれない。あの時は暑さ対策と時差対策も含めて、飛行機の中でジャージーに着替えて、空港に着いたらグラウンドに直行して深夜0時から練習したんですよ。昼間は何回か散歩に行きましたが、暑さで歩くことすら無理でした。お店とかもまったく開いてないんですよ、暑くて」など、丁寧に状況を振り返っくれた。

 川口の言葉で一番印象に残っている言葉がある。42歳で現役を続けていることに関し「僕は自分がベテランだと思わないように、口にしないようにしています。自分自身がベテランだと思ったら、人間は弱さもあるので『ベテランだから、少しくらい手を抜いてもいいかな』『42歳だから、これくらいしか出来ないだろう』と自分自身を甘やかしてしまう。それでは試合に出場する競争にも相手にも勝てない。ただでさえ年齢とともに体力は落ちていると思うし。だから若手と思って日々の練習には取り組んでいます」。同じ42歳の私にとって、心にグサリと突き刺さった。

 数日後、J2に所属するベテランFWが「最近、ベンチ外ばっかり。使ってもらえない」と私に嘆いてきた。「練習試合や練習の中で、貪欲に得点を重ねて、もっともっと信頼を勝ち取るしかないでしょ」と伝えた直後に「えっ、オレはもう練習試合でアピールするような歳じゃないでしょ」と返ってきた。プロ選手に失礼かと思ったが、思わず「それじゃダメでしょ。あの川口能活でさえ、こう言っていたよ」と前出の言葉を伝えた。ベテランFWは「マジで。確かにその通り。有り難うございます」と表情を変えた。リーグ戦で再びベンチ入りをつかみ、途中出場から決勝ゴールを決めた。世代を超えて、川口の強い信念は波及効果があった。

 帰り際、私も会社の野球チームで投手をすると翌日は肩から尻にかけて、痛みでつらくなると、42歳の悩みを伝えた。川口も「実は…」と切り出し、「僕も週に1回は三島(静岡県)まで、はり治療に通っているんですよ」と、私に合わせて弱さも見せてくれた。(弱さではなく、体のケアの一環ですが…)。私は最後に「同じ42歳の川口能活世代として、私は記者として頑張りますので、今後もよろしくお願いいたします」。そうあいさつすると、川口は苦笑いしつつ「いつでも相模原に来てください」。真っ黒に日焼けした笑顔で「川口能活世代」を名乗ることを許可してくれたと、勝手に思っている。【鎌田直秀】



 ◆鎌田直秀(かまだ・なおひで)1975年(昭50)7月8日、水戸市出身。土浦日大-日大時代には軟式野球部所属。ちなみに野球では高橋由伸、上原浩治、川上憲伸、金子誠らが同学年。98年入社。販売局、編集局整理部を経て、サッカー担当に。相撲担当や、五輪競技担当も経験し、16年11月にサッカー担当復帰。現在はJ1鹿島、J2横浜FCなどを担当。年齢だけでなく身長も川口能活と同じ180センチ。