U-20女子ワールドカップ(W杯)で優勝した女子U-20(20歳以下)日本代表のヤングなでしこの選手21人が26日、帰国し、都内で優勝報告会見を開いた。

池田太監督(47)は会見後の囲み取材で、1次リーグでスペインに0-1で敗れて迎えた13日のパラグアイ戦前に、泣きながら選手を鼓舞したことをMF長野風花(19=仁川現代製鉄レッドエンジェルズ)に暴露されたと聞き「そんな涙ながらという大げさなものじゃありません」と照れ笑いを浮かべた。

長野は池田監督の前に囲み取材に応じ、池田監督が「俺は、このチームが大好きだし、まだまだこのチームで戦いたい」と泣きながら選手を鼓舞したと明かしていた。池田監督は囲み取材で、その話をぶつけられると「言ってました? そうやって…」と言い、首をかしげながら苦笑いした。そして「いやぁ~涙ながらと言いますか、このチームの目標はてっぺん(優勝)にあるけれども、1次リーグ敗退の可能性があるので、終わるべきチームじゃないと感情を込めて伝えたのを、選手が『涙ながら』と言ってるんですよ」と1度は否定? した。

続けて報道陣が追及すると「ジーンとして言っているだけで…それを涙ながらと言うんですかね? ボロボロ泣いてるわけじゃない。ハッハッハ。年ですからね」と笑った。実際に涙は流れていたのかと再度、確認の質問をされると、池田監督は「涙ですか? 熱かったですね…この辺が」と頬骨の辺りを指し、否定はしなかった。

17年のアジア選手権後、選手にメッセージカードを配ったことについて聞かれると「求めることだったり出来たこと…1文だけです。世界一という目標を掲げていましたけども、選手への思いをちょこっとメモしただけ」と語った。もちろん、口答でも思っていることは伝えていたが「書いた方が伝わるかと思った」と説明した。

池田監督は、Jリーグが開幕した1993年(平5)に青山学院大から浦和レッズに入団し、94年に後に監督になるギド・ブッフバルトとDFラインを形成し主力として活躍したが96年に現役を引退。その後は浦和の下部組織、トップチームコーチなどを歴任。12年にアビスパ福岡に移り、12年には監督代行も務めたが、16年ほぼ一貫してコーチ畑を歩んだ指導者人生だった。

17年にU-19代表監督になり、本格的に監督への第一歩を踏み出したが、11年の指導歴で、選手にカードを渡したのは初めてだという。池田監督は「今までは、いろいろな選手と話したり、コーチとして携わっていた部分が多かった」と説明。「若い世代の選手であること、もしくは選手が女性であることでカードを渡すことを考えたのか?」と聞かれると「そこまで計算してやってはいないです。分かりやすく文字にしましたね、その時は」と振り返った。17年10月に選手にカードを渡し、次に集まったのは1月だったといい「今まで日々、その間で自チームのトレーニングもあり、成長してくれたのは喜ばしかった」と笑みを浮かべた。

この日、フォトセッションの際、選手は自身のポーズをまねたポーズを撮り「太!」と叫びながら撮影に応じた。「最初、そういうことをされた時、どう思ったか?」などと聞かれると「話している時に、よく見ているなぁと思いますよ。そこを見ていたかぁと…」と笑った。

選手が、シャツをパンツの中に入れる監督のファッションまでまねたと言ったと記者に突っ込まれると、池田監督は途端にムキになった。「あれは、絶対に、俺は上を脱いだ時に偶然、入っていたんですよ! そしたら、みんながインしてクックって笑っていた。だから逆にコーチ陣と全員、入れて反撃しておきました」。そう言った後「これを文章にするの、難しいでしょ?」と笑った。

時には監督という壁を取り外し、選手といじり、いじられ、コミュニケーションを取る。「太さん」「熱男」とまで呼ばれる、フレンドリーな監督が、次世代のヤングなでしこを世界の頂点に導いた。【村上幸将】