1日に80歳で亡くなったサッカー元日本代表監督のイビチャ・オシムさんを、日本サッカー協会副会長の岡田武史氏(65)が一夜明けた2日、追悼した。07年11月、オシムさんが急性脳梗塞で倒れた後を継いだ。98年W杯フランス大会のアジア最終予選以来、2度目の緊急登板で10年の南アフリカ大会に導き、史上最高タイのベスト16で安心させた。戦術は「まねできなかった」と言い、日本サッカー界への貢献に感謝した。

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岡田氏はこの日朝、オシムさんの悲報に接した。「昨晩は地方にいて所用があって。(日本)協会からも連絡をもらって、ニュースも見て驚いた。まだ80歳でしょう。早い…安らかにお眠りください」と祈った。

旧ユーゴスラビアの90年W杯8強など来日前から高名で、岡田氏の古巣千葉(前古河電工)の監督に就いた03年、自身も横浜の監督に就任した。Jリーグで2連覇を遂げたが、オシムさんとの直接対決では「確か初対戦で負けて(1-3)『コノヤロー』と。それが原動力になった。彼とは五分くらいだったんじゃないかな(リーグ通算で3勝2分け2敗)」と振り返る。

日本代表監督の後継指名を水面下で受けたのは07年11月20日だった。同16日にオシムさんが急性脳梗塞で倒れ、身を案じた日本協会が後任人事に着手する旨の了承を家族から得た後、すぐ岡田氏の電話が鳴った。

「協会の(特任)理事をしていて、まず病に倒れた報告が入った。(当時も地方におり)その数日後に『明日の朝一番で協会に来てくれないか』と。いきなりW杯予選から始まる、割に合わない仕事。断るつもりだった。神様のような方だったから、後任は余計に大変。でもオシムさんと協会が進めていた日本の発展に関するプランと説得を聞いていたら、腹の底から『日本のためにやらないと』『逃げちゃダメだ』という声が聞こえてきたんだ。気付いたら『やる』と答えていた」と無念を受け継いだ。

約1カ月後。12月24日にオシムさんが千葉県内病院の集中治療室(ICU)から、都内のリハビリテーション専門病院に転院した。その後、初めて直接報告した。「リハビリ中、お見舞いにうかがって。選手選考に悩んでいると相談したら『彼と彼と、あと彼も外してみるのもいい。どうなる?』と考えさせられてしまって…」と独特の言い回しを思い出し「僕とオシムさんは違う。まねしてもダメだな、というか誰もまねできなかった」と懐かしむ。

故郷サラエボが内戦に見舞われた当時も聞き「生きるか死ぬかの修羅場をくぐり抜けてきた腹の据わり方は参考になった」。出場可否で人生が変わる2度のW杯への挑戦にも、いま思えば生かされたように思う。

功労は計り知れないが「残してくれたものに気付くのは、実はこれからなのかもしれない」と奥深さを感じている。「哲学的で数学的で。グアルディオラやビエルサのように、結果が出ようが出まいが新しいサッカーを、と常に考えていた」。自身に交代後、戦術やメンバーが変わったように志向は違えど「日本らしさ」とは何か再確認した交代劇を、訃報を機に回想することで悼んだ。【木下淳】

 

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