プレーバック日刊スポーツ! 過去の9月21日付紙面を振り返ります。1990年の5面(東京版)は、PJMフューチャーズがマラドーナとの接触を伝えています。

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 サッカー界のスーパースター、ディエゴ・マラドーナ(29=アルゼンチン)が、日本のクラブチーム、PJMフューチャーズと接触を始めた。

 マラドーナが所属するイタリア・リーグのナポリ関係者が19日、明らかにしたもので、1992年プロリーグ発足時のマラドーナ来日に、また一歩前進した。

 PJMフューチャーズがマラドーナ獲得を宣言したのは7月のイタリアW杯開催時。有田平オーナー(58)自らイタリア入りし、金額欄が白紙の契約書まで用意したが、マラドーナ率いるアルゼンチンが決勝戦まで進んだために、実際に会うことはできなかった。しかし、その後も代理人を通して接触は続け、現在も桑原勝義監督(46)が、イタリアに滞在している。

 ナポリ側が公式にPJMとの接触を認めたことは、交渉が確実に前進していることを示している。マラドーナのナポリとの契約が92年シーズン(93年6月まで)残っているため、92年10月のプロリーグ発足に間に合わせるには、契約を短縮させる必要があるからだ。さらに、フランスなど他の数カ国からも移籍の話が来ているが、ナポリが「PJMと」と限定してコメントしたことは、来日の可能性の高いことを表している。

 プロリーグ参加を表明しているPJMとしては、20の希望チームの中から参加8チームを決定する来春までに、来日の確約をとりたい。「せっかくきても、プロリーグでやらなければ意味ない」と、桑原監督。静岡県2部リーグ所属ながら、マラドーナはプロリーグ参加への切り札になる。プロリーグ検討委員会の佐々木一樹広報担当は、「マラドーナ加入は、チーム絞り込みに高い評価の一つになる」という。

 「日本でも、アラブでも、アフリカでも、ビジネスの話をするのは自由だ」と、マラドーナはいう。間にナポリが入り、多額のマージンを取られるのを防ぐために、まず契約を短縮。そしてナポリの拘束を受けずにPJMと交渉することを望んでいる。「契約期間後どうするかは、自分で交渉する」と、ナポリをけん制している。マラドーナの日本でのプレーは、確実に実現へと向かっている。

 ◆PJMフューチャーズ 米国のポール・J・マイヤーが開発した能力開発プログラムの日本総代理店「PJMジャパン」が運営するサッカークラブ。「2002年にW杯出場」を目指して1987年(昭62)4月、日本リーグ経験者を中心に結成した。静岡・浜松を本拠に、創部3年目の昨年は天皇杯に初出場、ベスト16入りを果たした。選手25人。

 ◆ディエゴ・アルマンド・マラドーナ 1960年10月30日、アルゼンチン・ブエノスアイレス州生まれ。14歳でプロデビュー、16歳で代表入りし、3回のW杯を経験。86年メキシコ大会では優勝し、MVPにも輝いた。日本には79年にワールドユース大会で初来日、以後5回の来日で日本好きは有名。クラウディア夫人と子供二人。

 ◆これまでの経過

 PJMには、チーム創設時の3年前からマラドーナ獲得の話があり、92年のプロリーグ発足を前に、一気に実現へと動き出した。ワールド・カップ後は、マラドーナに近い代理人を通して、マネジャーのコッポラ氏などと接触を続けているものの、本格的な交渉は「マラドーナのナポリとの契約が短縮(92年6月まで)されてから、直接本人としたい」(桑原監督)と、している。

獲得のために20億円を用意し、年俸も約3億円を考えてはいるが、「安ければ安いにこしたことはない」と、有田オーナー。この日のAP電では、移籍金は2000万ドル(約27億6000万円)となっているが、ナポリ側の金額つり上げのための手段ともみられる。

 ◆マラドーナ近況

 W杯終了後はすぐに家族とともにアルゼンチンにがい旋帰国、国民の熱狂的な歓迎を受けた。8月中旬にイタリアへ戻ったが、9日に開幕したイタリア・リーグでは腰痛もあって力を出せず、前週は欠場している。しかし、19日のチャンピオンズ杯1回戦(ナポリ)では2得点を挙げ、3-0とウィペシピー・ドージャ(ハンガリー)を一蹴する原動力となった。

W杯では数々の問題発言で世界中の注目を集めたが、大会後もその口は相も変わらない。「将来は代表の監督をやりたい」と爆弾発言もした。また、アルゼンチン滞在中に受けたNHKのインタビューでは「誘われれば日本でプレーして、日本のファンに恩返しを」と、来日に向けて前向きな発言をしている。

 ◆伊紙も報道

 マラドーナの日本への移籍話は、イタリア国内でもニュースとなっている。16日付の一般紙「ラ・レパブリカ」でも、「あす、日本人と交渉する」という見出しで、PJMフューチャーズが、92年を目指して1600万ドル(約22億円)の移籍金で獲得に動いていること、PJMの代理人が、マラドーナのマネジャーのコッポラ氏と会っていることなどを伝えている。

※記録と表記は当時のもの