初タイトルをつかんだヴィッセル神戸を、舞台裏から支えた男がいた。強化の総責任者、三浦淳寛スポーツダイレクター(SD=45)だ。背広組として取締役強化本部本部長としても経営に携わり、責任問題に直結する重要な立場だ。

「SDとは、まずはクラブの方向性をしっかり決めて計画を立て、クラブとしてぶれずに実行する。選手、コーチらの契約、選手獲得。選手がピッチ上で結果を出せるため、環境をつくり続けること」

18年2月にSD就任が発表された。現役時代は登録名「三浦淳宏」として日本代表MFとして活躍。愛称「アツ」は無回転やブレ球のFKを自由に操り、プレー以外でもピアス姿のさわやかなルックスで人気を誇った。そんなスター選手だった男が、初めてクラブ幹部として呼ばれたのが古巣神戸だった。就任会見で「我々はFCバルセロナを目指します」と宣言した。

「(バルセロナ発言で)いろんなところで鼻で笑われもした。でも気にしないようにした。実行することが何より大切だと思った」

楽天主導でMFイニエスタを獲得したとはいえ、そのポゼッションサッカーを機能させ、進化へのパズルを組み合わせたのは三浦SDだった。19年6月にドイツ人のフィンク監督の招聘(しょうへい)、中断期間には元日本代表DF酒井、ベルギー代表DFフェルマーレンを加えて勝負に出た。

三浦SDには1つの経験則があった。横浜フリューゲルス時代の98年、バルセロナ監督だったスペイン人のレシャック監督の指導を受けた。人は動きすぎず、ボールに汗をかかせろ、その中で自分の特長を出せと教わった。「私のサッカー観はその時、ある程度固まった」。楽天がバルセロナのスポンサーになる以前から、三浦SDには確固たる理想があった。

SD1年目の18年は2度の監督交代を経てJ1リーグは10位。19年も泥沼の7連敗など同じく2度の監督交代に踏み切り、残留争いを強いられての8位。1人の幹部として苦悩し、もがいた。この天皇杯優勝までは、満足いく結果は得られなかった。

この仕事について、三浦SDは「選手は試合やってたら自分で攻める、守るとできるが、僕らは祈るしかない。試合が始まれば選手に頑張ってと祈るしかできない」と苦悩の胸の内を明かす。

支えてくれたのは夕魅夫人(45)と1人娘の由楽(ゆら)さん(8)だった。娘は父親の三浦SDのことを「あっちゃん」と呼ぶ。満足に遊んであげられない家庭環境なのに、娘は先日「あっちゃんは、由楽のために仕事を一生懸命、頑張ってくれている」と言ってくれた。「娘の言葉に泣きそうになった。妻の家事や子育てにも協力できていない。本当に家族に感謝しています」。ダンス、クラシックバレエなどに打ち込む娘の姿に、やすらぎを覚えた。

19年は人生の転機もあった。4月、父伸邦さんが77歳で亡くなった。チームは連敗中だったが、クラブの配慮で病床の父がいる大分に戻れた。亡くなる2日前から父と再会でき、最期を見届けられた。「この天皇杯は、尊敬するオヤジが天国で見守ってくれていたと思う。日本一を報告したかった」。目を潤ませた三浦SDの胸には、いつも父親がいた。

21年前の元日、旧国立競技場で天皇杯を高々と掲げたのは三浦SDだった。クラブ消滅が決まっていた横浜Fの選手が一丸となり、有終の美を飾った。「あの時とは事情は違うが、サポーターが一丸となり、チームも一丸になったのは同じ。サポーターには感謝しかない」という。

座右の銘は「自信と過信は紙一重」。J1では通算318試合45得点と数字を残したが、試合に出られない時期も味わった。だから自らに過信はしない。SD職で全力投球するため、最近は発言は控えめになった。「主役は選手、我々は裏方」がモットー。

「今後も仲間の持ち味が出せるような環境をつくり続けたい。サポーターと、我々の目標であるアジアNO1をともに勝ち取りたい」。20年シーズンはJ1リーグで初優勝を目指し、初出場のACLでアジアの頂点も狙う。アツの挑戦は続く。【横田和幸】

 

◆三浦淳寛(みうら・あつひろ)1974年(昭49)7月24日、大分市出身。国見(長崎)、青学大を経て94年横浜F入団。横浜、東京V、神戸を経て10年横浜FCで現役引退。J1通算318試合45得点、J2通算109試合20得点。日本代表として99年6月の親善試合ペルー戦で国際Aマッチ初出場、同月の南米選手権ペルー戦で直接FKを決めて代表初得点(通算25試合1得点)、00年シドニー五輪に年齢制限外で出場。