東日本大震災から丸10年がたつ年にJ1リーグのベガルタ仙台は震災当時の監督、手倉森誠氏(53)に再度、チームを託した。当時、「希望の光になる」と言い聞かせシーズン4位にまで引き上げた手倉森監督は、10年たっても傷痕が残る被災者に対し、どうしたら希望を届けられるのか-。被災地クラブの在り方に真剣に向き合う、その本音に迫った。

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天井が崩れ落ち、空が見えた。このままでは死ぬ。急いでクラブハウスの2階から駆け下り、命からがら外に飛び出た。足元の駐車場が急にひび割れる。その割れ目が不気味に上下した。次の瞬間、泥水が噴き出る。液状化現象だ。経験したことのない地震で半壊した仕事場を前に、手倉森監督はぼうぜんと立ち尽くした。

明日は本拠地開幕戦。名古屋は新幹線で仙台を目指している。「明日の試合はどうなるのか」。最初はそう考えていた。電話もつながらなければ、携帯でネットも見られない。担当記者が車のカーナビでテレビを見ようと言い出した。エンジンをかけ飛び込んできた映像は、仙台空港に津波が押し寄せる場面だった。「ああ、名古屋戦どころではない。今シーズンJリーグが消し飛ぶかもしれない」。そう頭をよぎった。

家具や食器がめちゃくちゃになった家を清掃し翌日、クラブハウスを少しでも復旧しようと仕事場に戻った。「サッカーがいつできるようになるか分からないが、いつ再開しても良いように、整えておかないといけない」と思った。

その日の夜。停電から復旧しない仙台の闇夜を見上げると、普段見えない星空が広がっていた。津波で多くの命が奪われた現実と乖離(かいり)した風景。ふと「希望の光になることが、スポーツにできることだ」と考えていた。

その後、3月中は選手らを連れて被災地支援に回った。石巻市の小学校では生活用水を運ぶため、プールからバケツリレーを行った。運動不足の子どもたちのために、グラウンドでサッカーもした。「ありがとう、頑張れって。親御さんたちに泣かれてね。これは、皆さんのためにやらなきゃって思った」。

心苦しかったが4月初め、練習ができなかった仙台を離れ、千葉・市原でキャンプを張った。そして同23日、奇跡的に再開したJリーグ。アウェー川崎F戦で後半42分にDF鎌田次郎がヘッドを決め、2-1と涙の逆転勝利を飾った。

試合終了直前、手倉森監督の頭には、テレビ画面の映像が浮かんでいた。日本列島の太平洋沿岸を赤く点滅させていた大津波警報。あの瞬間から、わずか1カ月余り。目の前では必死で被災地のために戦うベガルタイレブンがいる。「ほとんどが東北出身者ではない選手たちが、東北のために頑張ってくれて…」と、涙が出た。

あれから10年。仙台の監督に復帰したことを「運命だと思っている」。しかし、10年たっても家族を亡くした遺族の気持ちは癒えないことも知っている。そこにスポーツがどう寄り添えば良いのか。6日はホームのユアテックスタジアムで、10年前の開幕戦で逆転勝利した川崎Fと対戦する。

「10年が節目だなんて思えない被災者の方がたくさんいるのだと思う。その方たちは『希望の光』だと言っても、スポーツを見ようと思う気持ちにもならないかもしれない。だから、めったに起こらないような事象を起こすしかない。優勝。その姿を少しでも見てもらえたら」

また11年時のように、被災地に寄り添う活動もしなくてはならないとも思っている。「希望」になるための努力は惜しまないつもりだ。【11年J1仙台担当=三須一紀】

○…震災当時を知る唯一の生え抜き、MF富田晋伍(34)は毎年、津波で被害を受けた現場をチームで訪れている。今年の始動日には名取市閖上を訪れた。「地元の方が前を向いて、自分たちに当時、何があったかを話してくれた。だからこそ自分たちが何かを残すことができればと思う」。被災地クラブだが当時を知る選手はわずか3人だけ。「このクラブに来た以上は復興の気持ちを背負わないといけない。当時を知らない選手とも、その気持ちを共有して震災10年のシーズンを戦っていきたい」と意気込んだ。

◆手倉森誠(てぐらもり・まこと)1967年(昭42)11月14日生まれ、青森県五戸町出身。双子の弟浩とサッカーを始め、漫画「キャプテン翼」の立花兄弟のモデルになった。現役時はMF。五戸高、住友金属(現鹿島)、鹿島、NEC山形(現山形)でプレー。95年に引退し指導者転身。08~13年に仙台監督。14~16年にリオデジャネイロ五輪日本代表監督、14~18年に日本代表コーチ(五輪代表兼任含む)。19、20年に長崎監督。