ワールドカップ(W杯)の死闘を終え、日本サッカー協会の田嶋幸三会長、森保一監督ら本隊は7日に帰国した。

帰国した一部選手は成田空港から近いホテルに移動し、田嶋会長、森保監督、反町康治技術委員長は帰国会見を、選手たちは着替えてそれぞれ帰路についた。しかし直前になって急きょ、予定が変更された。DF吉田麻也主将が会見メンバーに加わった。

吉田は「コスタリカ戦のハーフタイムで森保監督がブチ切れたことが一番印象的でした」。「試合後に泣きすぎて、体調を崩して、すこぶる体調が悪い」と、移動の疲れもみせず、場内を和ませた。

帰り、車に乗り込もうとする吉田に聞いた。「疲れているはずなのに、なぜ予定にない会見メンバーに? 主将の責任?」

「いえいえ、多田さんに言われたからです」

「多田さん」とは何者か? 日本協会の広報部長で、今回のW杯カタール大会で日本代表の取材において国内外のメディアを統括した人物だ。

選手の負担を最小限にしながらも、メディアの要求にも応えるスタンスで、海外の記者からも高く評価されていた。選手も「多田さん」への信頼があるから、取材要請には積極的に協力する。

日本協会はサッカー熱を一時的なものにしないため、田嶋会長が帰国会見の席で、普及や育成への告知コメントを出したり、吉田主将が「マスコミのみなさん、選手へのオファーをお待ちしています」と、選手のより一層の露出をアピールした。それと歩調をともにする広報部の積極性。12年前の南アフリカ大会で、日本協会の広報部は極力選手のメディア露出を控え、試合に集中させた。当時の広報部長はそれが評価されたが、そのやり方には疑問符がつくこともあった。

98年を思い出す。W杯フランス大会後、帰国した成田空港でFW城彰二が水を掛けられる“事件”があった。あってはならないことだった。当時、日本は1次リーグ3敗で敗退し、エースFWだった城が標的にされた、一部メディアでは「戦犯」との表現で、書き立てた。当然、城はマスコミ不信に。再開された直後のJリーグ。横浜の城は平塚(現湘南)戦で2ゴールを決めてヒーローになった。

しかし、城は取材エリアを素通りして移動バスに乗り込んだ。当時の横浜の広報はバスの座席に座る城を引っ張り出して報道陣の前に立たせた。城も快く応じ、10分以上、自分の言葉で試合を振り返った。後日聞いた。「なぜバスから降りたのか?」。「木村さん(当時の横浜広報担当)に言われたら断れないよ」と笑いながら話した。

今回の吉田も20年前の城も同じ答え。広報部との信頼があるからこそ、要望に快く応じる。それにしても広報部の仕事も簡単ではないな、と思う。人と人の信頼関係構築の重要性を改めて考えるW杯でもあった。【盧載鎭】

◆多田寛(ただ・ひろし)メディアオフィサー、日本協会フットボール本部チームコミュニケーション部部長、46歳。

筑波大蹴球部で左SB。どんな時も動じないビッグな広報。東京Vでラモス監督、日本代表でハリルホジッチ監督を担当し鍛えられた。