急速なグローバル化が進む社会の中、箱根駅伝でも異例の留学生主将がチームを引っ張る。拓大の2区にエントリーされたエチオピア人のワークナー・デレセ(4年)だ。1989年、第65回大会の山梨学院大ジョセフ・オツオリさん(当時1年)が初の留学生選手といわれ、2区を快走してから30年。昭和最後の大会から圧倒的な印象を与えてきた留学組が、くしくも平成最後の大会では主将で箱根路を駆け抜ける。

「日本語分かりません。ダメです」。昨年12月、デレセは次期主将を命じられ、1度は断った。それでも岡田正裕監督(73)は「1年からずっと、私が食堂に行けばお茶を出してくれ、食器の片付けもする。そんな日本人より日本人らしい人間性が決め手だった」と意思は固かった。

練習後は遠慮なく寝ていた昨年までとは一変。主将として選手のタイムや順位をデータ化し、チームミーティングの議題にした。脚が痛ければ芝生の上で別メニューだったが、今年は痛くても我慢し、全体練習を引っ張っている。

デレセの故郷は首都アディスアベバから約1000キロ離れた郊外。テレビを見て憧れて競技を始めたが、地元に陸上を詳しく知る人はおらず、周囲から笑われた。母からも「何で走ってるの? やめなさい」と言われた。諦めきれず、個人練習を重ねて首都の高校に転校。かつて日本で陸上を経験した先生と出会ったことがきっかけで、日本への留学を夢見て走り続けた。

オツオリさん(06年に37歳で事故死)が初めて箱根を走ったのは昭和が終わる5日前。山梨学院大の上田誠仁監督(59)は「留学生が来たことで、速いレース展開に日本人選手が追いつけ追い越せとなった」と、レベル底上げの一因になったと分析した。

しかし当時は「“害人”を使うな」などと心ない手紙が多数届いた。卒業間際、本音を聞いてみるとオツオリさんは甲州弁で「そんなの気にしちょらん」と笑い飛ばした。上田監督は振り返る。「彼は偏見を抱いて見られるのも理解した上で日本に来ていた」。

時代は変わり、留学生ランナーは珍しくなくなった。20年東京オリンピック(五輪)に向け「ダイバーシティ(多様性)」を認め合う社会になりつつある。デレセも「みんな優しかった」と語る。オツオリさんの勇気ある1歩からタスキをつないだ平成の箱根路は、国際交流を深めた道のりでもあった。【三須一紀、佐々木隆史】