陸上女子で100メートル11秒32、200メートル23秒15の自己ベストは、ともに日本歴代2位になる。同学年の福島千里(33=セイコー)としのぎを削り、女子短距離界をリードしてきたスプリンターは昨秋、静かにスパイクを脱いだ。高橋萌木子(ももこ)さん(32)は引退した今、新たな道へ進もうとしている。

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昨年10月の日本選手権の少し前だった。高橋さんはひっそりと現役生活を終えた。「引退したのは9月ですかね」。鳥取県のトレーニング研究施設「ワールドウィング」に所属し、競技に取り組んで、実は7年ぶりとなる日本選手権の女子100メートルに出場する権利を持っていた。ただ、その舞台に立つことなく、欠場していた。「出ることではなく、戦うことが目標だった。戦える状態ではなかった」。結果的に9月5日。その中学生、高校生と一緒に走り、12秒43だった鳥取県内での記録会が引退レースとなった。

大きなストライドを武器とし、後半に強かった高橋さんは、埼玉栄高時に100メートルで全国高校総体を3連覇。平成国際大1年時の07年には日本選手権を制した。09年には100メートルで11秒32、200メートルで23秒15と、ともに福島に続く日本歴代2位、学生歴代1位のタイムを残した。世界選手権にも07年大阪大会は100メートル、09年ベルリン大会は100メートルと200メートル、11年大邱大会は400メートルリレーと出場を果たした。ただ、12年ロンドン五輪の400メートルリレーでは補欠に回り、以降は両アキレス腱(けん)の故障などに苦しんでいた。

同学年の福島とは特別な絆で結ばれる。1月末、拠点だった鳥取から地元の埼玉・三郷市に引っ越した時にはラインが届いた。「今までよく頑張りました。これからは私も近くにいる。大丈夫」など選手生活のねぎらいに加え、今後の挑戦の背中を押してくれる長文だった。高橋さんは「彼女の存在が私を高めてくれた。彼女がいなかったら、自分はない」。そう心の底から言える存在だ。

高橋さんは今、新たな目標へ向かっている。メンタル、心の面から選手の能力を最大限に引き出すことができる「スペシャリスト」となり、それを仕事とすることを目指している。

「体のメンテナンスは広まっていても、心のメンテナンスって、まだまだ少ないと思うんです。やっぱり心がすり減っていたら、パフォーマンスが伴わない。それぞれ悩んでいる人の心をひもとくというか、選手に自信を持たせて、その人の持っている可能性を最大限に引き出せるようにすることだったりをしたい。そのために同じ志を持つ仲間の存在も必要なんです」。

その志にたどり着いたのは、競技経験だけでなく、ふとした一言も大きかった。昨夏。漠然としていたセカンドキャリアを考え、知り合いトレーナーに何げなく相談した。「私は何に向いていると思いますか?」。返ってきた答えは胸にスッと落ちた。「メンタルトレーナーとか向いているんじゃない。ももちゃんは人の話を聞くのとか、引き出すのがうまいから」。将来の方向性が定まった。その日のうちに「スポーツメンタルトレーナー」の資格習得講座に申し込んだ。

「技術面を教えるスペシャリストはたくさんいる。ただ、メンタル面のスペシャリストの人数はまだまだ少ないから、私はそっちの道を究めたい」

もともと器用なタイプではない。万能に多くの事をこなすのは苦手な性分。だからこそ、まずは専門性の高い1つの分野で秀でた存在となる道を探る。春には原因不明の虫垂炎で入院した時期もあり、まだまだ手探りの段階だが、体調が完全に回復してから、より本格的に活動をスタートしていく。

女子短距離界の歴史を彩り、同時に経験した苦闘も長かった。光も影も知る。希代のスプリンターでありながら、生まれた時代ゆえに脇役でもある。高橋萌木子-。その独特の味ある競技人生を歩んできたからこそできる第2の人生を進んでいく。【上田悠太】