少年時代から、フィギュアスケートと真摯(しんし)に向き合っていた。長女の有香をはじめ、荒川静香、安藤美姫、中野友加里、村主章枝、そして浅田真央ら名スケーターを指導してきた佐藤信夫(75)。14歳から佐藤を教え始めた元全日本女王の山下艶子(89)は「信夫ちゃんは真面目で、よく練習した。“しんどい”なんて口にしたことは1度もなかった」と振り返った。

 母節子が経験者だったこともあり、小学6年から本格的に競技を始めた。中学2年だった55年度全日本選手権3位入賞。コーチの山下は、才能ある少年のため、高レベルのプログラムを用意した。52年オスロ五輪を連覇したディック・バトン氏らの演技を研究。日本人ではだれも成功していなかった2回転ルッツも組み込まれた。

 57年2月の世界選手権(米国)の代表候補にも浮上。だが、直前の国内選考会では練習の疲労から体調を壊す。自分の演技以外の時は寝ているような状態。男女各3人の有力候補のうち、ただ1人落選してしまった。「初めて悔しさを味わった。これではいかん」と雪辱を期す。世界選手権から1カ月後、同年3月の全日本選手権(東京・後楽園)。世界選手権代表も出場する中、日本人初の2回転ルッツを成功させ、初優勝を飾った。

 日本の頂点に立った15歳の佐藤だったが、世界選手権出場を逃したこともあり、外国勢の演技はまったく未知の世界だった。当時、海外選手の演技を見る機会はほとんどない。街の映画館で、たまにフィギュアスケートのニュース映像が流れた。「年2回ほど、スケートが上映された。必死に見てまねをする。教材はそんなものしかなかった」。 57年秋、世界女王キャロル・ヘイス(米国)らが来日し、エキシビションで演技を披露した。男子は3回転を跳び始め、女子は1、2回転の時代。初めて世界のトップを間近にした15歳は「素晴らしかった。こんなシャープなスケートがあるのかと。フィギュアはやはりスポーツなんだ」と、ダイナミックな演技に、心を揺さぶられた。

 18歳のとき、60年スコーバレー五輪の出場権を獲得する。初の国際大会が五輪の大舞台。出発の羽田空港で、佐藤はスケート道具一式以外に、大きな荷物を肩に下げていた。8ミリの撮影機。風光明媚(めいび)を楽しむわけではない。コーチ時代は8ミリがビデオに代わったが、現役、コーチ時代を通して、撮影機は欠かせないアイテムになった。

(敬称略=つづく)

【取材・構成=田口潤、阿部健吾】

 ◆佐藤信夫(さとう・のぶお)1942年(昭17)1月3日、大阪市生まれ。小学6年からフィギュアを始める。全日本選手権は56年度から10連覇。五輪は60年スコーバレー、64年インスブルック大会出場。65年世界選手権4位。68年春にコーチに転身。同年グルノーブル五輪8位の久美子夫人(現コーチ)と69年に結婚。10年2月に世界殿堂入り。昨年まで浅田真央を指導した。

58年3月、華麗なジャンプの演技をみせる佐藤信夫
58年3月、華麗なジャンプの演技をみせる佐藤信夫