きれいな涙だった。前日14日が悪天候で無効となり、15日に仕切りなおしになったエビアン選手権の第1日。引退する宮里藍(32)と同組だったポーラ・クリーマー(31=米国)は、左手首の古傷を悪化させ、13ホール目となった4番で途中棄権した。去り際、泣きながらフェアウエー上で、宮里と抱き合った。唐突に訪れた別れを惜しむかのように、何度も、体を寄せ合っていた。

 カートでクラブハウスへ戻ると、幼い少女に「ごめんね」と語りかけた。手書きで「I Love Creamer」と記した紙を掲げながら、少女は朝からずっとコースを付いてきていた。2人の会話が終わるのを待って、クリーマーに片言の英語で話しかけた。まだ目には涙がにじんでいる。日本のジャーナリストだとあいさつをしてから取材をお願いすると、彼女は「OK」と言って、聞き取りやすいように、ゆっくり話してくれた。

 「アイ(宮里)のことよね? 彼女は私のベストフレンドなの。偉大なプレーヤーだし、人間的にもとても素晴らしい。彼女にとって最後の大会なのは知っているから。もし、できることならば…。最後まで、彼女と一緒にコースを回りたかった。その思いで、プレーをしていた。でも、それができなかったのは、すごく悲しい」

 そう言うと、涙がまた頬を伝って落ちた。そして、左手のテーピングをほどいて見せてくれた。手首から肘にかけ、赤黒く腫れ上がっていた。とてもプレーができる状況ではなかったのは、ひと目で分かった。

 それでも彼女は、13ホール目まで痛みをこらえて回った。インスタートの14番で、ティーショットを打った直後に激痛が走り、ひと目をはばからずに号泣。応急処置が終わるまで、25分間中断した。その時点で、もう限界だった。氷を患部に当てたまま1打、放つ度に顔をゆがめる。いつまでも、しくしくと子供のようにすすり泣きをしながら、宮里と元世界ランク1位の曽雅妮(ヤニ・ツェン、台湾)に付いていった。スコアは乱れ、棄権する時点で5オーバー。ボロボロになってまでプレーを続けたのは、大会側の配慮もあって、引退する宮里から同組に指名を受けていたから。クリーマーの本心は、棄権だけは避けたかった。

 18歳だった05年には、米女子ツアーの最年少優勝記録を樹立した。ピンクのリボンがトレードマークのスター選手。1歳違いの宮里が米ツアー挑戦を決めた際には「QTを突破することよりも、目の前の試合に勝つことを考えた方がいい」とアドバイスをしていたという。

 2人の真剣勝負は、もう見ることはできない。それでも、長い年月をかけて培った深い絆を見たような気がした。【益子浩一】