第100回を迎える全国高校ラグビー大会が27日、大阪・花園ラグビー場で開幕する。

1918年(大7)に豊中運動場(大阪)で幕を開け、大正天皇の崩御や太平洋戦争による中止、開催地の変更も重ね、その歴史を刻んできた。

日刊スポーツでは連載「花園100回の軌跡」を、22日から5日間掲載。第1回は大阪・四條畷中で最後の中等大会となった48年の第27回(兵庫・西宮球技場)に出場し、学制改革で初の高校大会となった49年には第28回(東京ラグビー場)で四條畷高を準優勝に導いた元日本代表の広畠登さん(90)が当時を振り返る。

  ◇  ◇  ◇

思わず武者震いする光景が、そこにあった。第2次世界大戦の終戦から、わずか3年。年明けの49年1月に始まる全国高校大会の舞台は、花園ではなく、東京ラグビー場(現秩父宮ラグビー場)だった。四條畷高のフランカーだった広畠さんは、仲間と人混みをかきわけながら汽車に乗った。

「地元の四条畷駅の見送りが本当にすごかったんです。学生はもちろん、市民の皆さんが小旗を振ってくれていた。『いくぞ~!』となりますよね。『行ってきます!』と何度言ったのか、分かりませんでした」

東京駅までの旅路は10時間以上かかった。わずか1年2カ月前に完成した東京ラグビー場。その敷地内に足を踏み入れて、驚いた。

「『シャワーがあるぞ~!』となってね。『こんなところでやるんやぞ!』と大喜びでした。冬は霜柱が立つから、グラウンドはぬかるんでいました。素晴らしい設備と、ぬかるんだ地面は、今も覚えています」

48年春の学制改革で「六・三・三」が導入され、中等大会が高校大会に変わって最初の大舞台。出場校は8校だった。四條畷高は初戦で千歳高(東京、現在は閉校)に9-0で勝利。準決勝は脇町高(徳島)と0-0だったが、反則数の差で、決勝進出を決めた。決勝は秋田工高に3-13。得点以上の差を感じ、広畠さんは涙が止まらなかった。

「負けて悔しくて、涙が流れました。地元に帰ると、いろいろな人が喜んでくれた。でも、親だけは『お前のために、金を集めるのが大変やった』とね。勝てば滞在が延びますからね。家族からは『ようやった』と言われない時代でした」

広島・三次市で生まれ、小3で大阪に引っ越した。柔道を始めると「思い切り襟を引っ張って『えいっ!』と投げるのが楽しかった」とのめりこんだ。第2次世界大戦が激化すると、学徒動員で高射砲の弾を磨いた。45年になると「大阪大空襲」に恐怖を覚えた。

「大阪の中心部に目をやると火の柱が見えるんです。それに見入っていたら『こっちにも来た!』となって、走って防空壕(ごう)に逃げる。運良く命拾いしました。1トン爆弾が落ちた跡は、すごい穴でした」

戦争は15歳だった少年の生きがいも奪った。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は「武道禁止令」を出し、柔道ができなくなった。その中で出合ったのが、ラグビーという競技だった。

「蹴っても、パスをしても、何をしてもいい。相手をはね飛ばしたっていい。ルールの中なら何でもできるのが、楽しくて仕方がなかったです」

入部からほどなくして、全国屈指の実力を誇る同志社中と練習試合があった。大阪から京大農学部のグラウンドに出向いた。四條畷中は着物の「莫大小(メリヤス)」を2枚重ねて作った、黄色がかった白のジャージーを着用。だが、短パン、靴下はバラバラで、靴は運動靴だった。一方の同志社中はスパイク、ストッキングまで一式そろっていた。

「とにかく驚いた。それでも勝ったから『同志社にはだしで勝った』と言われました。当時はシャツが破れても、新しいものを買ったり、先輩のお古をもらえない。90歳になっても、母への感謝の気持ちがあります。服が破れたら手縫いで繕い、ドロドロになったものを洗濯してくれました」

朝、昼とうどんを食べ、ご飯が出てくるのは夕食だけだった。うどんは1年分が半年でなくなり、食糧を求めて闇市に向かう生活だった。48年1月には最後の中等大会(西宮球技場)で4強。苦しい環境下でも30~40人ほどの部員が一丸となり、日本一を目指した。

地元の新聞に「前途洋々」とまで記された広畠さんは、進学した同志社大在学中に日本代表へ選出された。戦後初の代表戦となった52年オックスフォード大戦(花園)に出場。大学卒業後はラグビーをやめて保安隊(のちの自衛隊)に入隊し、航空自衛隊のパイロットとして、日本のために尽力した。

あれから半世紀以上が経過した。2020年。新型コロナウイルスの影響で無観客開催となったが、第100回の記念大会は予定通り行われることになった。

「思い出に残る試合をしてほしいです。自分の全精力を尽くして、15人が一緒になって戦った試合にしてほしい。高校生には『花園』という目標がある。大人になっても『あそこでやれたんだぞ!』と、胸を張れる試合をしてほしいです」

静かに暮らす京都の地から、現役高校生たちの奮闘を願っている。【松本航】

 

◆全国高校大会の会場 1918年の第1回から豊中運動場、1923年の第6回からは宝塚運動場(兵庫)を使用。1925年から3大会では甲子園球場(兵庫)で行われた。以降は南甲子園運動場となり、戦後は49年(第28回)の東京ラグビー場を除き、西宮球技場が定着。四條畷中時代に西宮球技場で戦った広畠さんは「隣の野球場の大浴場で、敵味方関係なく汗を流した」。63年の第42回で花園ラグビー場に移り、「聖地」として親しまれる。

「花園100回の軌跡」連載まとめはこちら>>