第100回を迎える全国高校ラグビー大会が27日、大阪・花園ラグビー場で開幕する。1918年(大7)に豊中運動場(大阪)で幕を開け、大正天皇の崩御や太平洋戦争による中止、開催地の変更も重ね、その歴史を刻んできた。日刊スポーツでは連載「花園100回の軌跡」を、5日間掲載する。

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昭和最後の日、1989年1月7日。花園ラグビー場第1グラウンドには、対照的な2つの光景が広がっていた。笑顔を浮かべる茨城・茗渓学園フィフティーンの中には、スタンドからカメラを向ける女子生徒にポーズをとる者もいた。大工大高(現常翔学園)フィフティーンは全員、泣いていた。ひざまずく選手も、その肩を抱く選手も泣いていた。

「チームカラーの違いですよね。自由奔放なラグビーやった茗渓さん。我々はひたすら厳しく、積み重ねてきましたし。現実をすぐに受け止められんかったですわ」。当時、大工大高2年ながら“怪物”と呼ばれ、後に日本代表キャップ数79となるCTB元木由記雄氏(49=京産大GM)が、述懐した。

第68回大会の決勝戦は、昭和天皇の崩御により中止、大工大高と茗渓学園の両校優勝となった。花園ラグビー場近くの東花園駅、大阪難波駅などの近鉄沿線で「決勝戦中止」と掲示された。過去99回の大会で、決勝戦が行われなかったのは、この時だけだ。

当時の大工大高ヘッドコーチ、常翔学園の野上友一監督(62)によると「中止」は予想外だった。

「社会的に年末から自粛ムードはありました。それでも、1月6日の夜には(大会サイドから)『7日はテレビ放送は止めるけど、試合はやる』という連絡がありました」。無名だった同校をたたき上げ、全国制覇に3度導いた名将・荒川博司監督(故人)、元木ら部員たちは“やる気”で床に就き、朝を迎えた。

午後2時5分のキックオフに合わせ、大阪市内の宿舎から出発の準備を進めていた午前10時前、荒川監督に「中止」の知らせが入った。

「部員に集合がかかって、待ってたら、荒川先生が来られまして。その顔を見た時に“ただごとやない”とすぐにわかりました」と元木氏。

荒川監督に促された野上氏が部員に告げた。「天皇陛下が崩御されたので、決勝は中止になった」。荒川監督が後を受け、部員に「泣くな! 両校優勝になったんや。胸張って、花園に行くぞ」と声をかけた。

野上氏は言う。「選手はもちろんやけど、我々も残念でした。みんな、絶対に勝つ、勝てると思ってましたからね。僕も(31歳で)若かったし“何でやねん”と、そればっかりで」。

元木氏は「頭がボーッとして、真っ白で。状況を考えたら、納得せんとあかんのはわかってるんですけどね」。花園へ行き、試合はせずに表彰式を終え、再び宿舎に戻って、新チームの主将に指名された。その間もずっと涙が止まらなかった。

あれから32年たった。つらい記憶は、いい思い出になった。2015年4月26日。「幻の決勝戦を-」という機運が高まり、当時のメンバーによる交流戦が花園ラグビー場で実現した。

元木氏が言う。「当時はつらさだけやったけど、何がどういいふうになるかわかりませんね。両チームの全員が集まってね。楽しかったです。『あの時な-』とかみんなで話をして。違う形で、いい思いをして、今考えたら両校優勝で良かったかなって思えるんです」。意外なことに同氏は高校卒業後、茗渓学園のメンバーと接点が不思議なくらいなく、初めて会話を交わす相手がほとんどだった。

野上氏も思いは同様だ。「100回にもなる歴史の中で、こんだけ話題になることってないでしょ? 今は『ひょっとして、優勝1回もうけたかな』と思ったり」。試合後、胴上げされる“役得”まで経験した。

スコアは64-19。大工大高の圧勝だったが、両校OBとも試合後は笑顔しかなかった。この試合を機に、両校で「昭和45年会」(70年度生まれ)が結成された。【加藤裕一】

◆両校優勝 大工大高と茗渓学園の68回(88年度)大会を含めて4度。他に17回(34年度)の鞍山中、台北一中(決勝スコア3-3)27回(47年度)の秋田工、函館市中(同6-6)90回(10年度)の桐蔭学園、東福岡(同31-31)。24回(42年度)の北野中、福岡中は関西、九州の分離開催で含まない。