今季で現役を引退する14年ソチ五輪団体銅メダルの伊東大貴(36=雪印メグミルク)が、現役最後の国内試合を有終の美で飾った。1回目129・5メートルで首位に立ち、2回目127メートルで合計249・2点で優勝した。試合前に札幌市内で行われた会見では「悔いのない素晴らしいジャンプ人生だった」と万感の思いをあふれさせた。4月からは所属先のコーチに就任し、指導者の道をスタートさせる。

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伊東が思い出の地での国内最後のジャンプを、勝利で締めた。12年1月28日W杯札幌大会で初優勝した会場で、表彰台の中央に立った。最後の勇姿を見たいという家族のリクエストに応え、海外遠征から一時帰国して出場。1、2回目ともにK点越え、トップの飛躍をそろえての快勝に「どうしよう、もう1回現役やろうかな」とご機嫌に話した。「まさか優勝できるとは思わなかったから、この上ない国内締めが出来た」と満足げだった。

長く日本ジャンプ界をけん引した。06年トリノ五輪から5大会連続で代表に選ばれ、W杯は通算4勝を挙げた。世界選手権では13年バルディフィエメ大会混合団体で優勝を果たした。ルール変更などにも対応し活躍してきたのは「まわりに負けないぞって気持ちを持って日々を過ごしていた」からと胸を張った。「本当に幸せなジャンプ人生でした。悔いなくすっきり終えられることに自分でもびっくりしている」とすがすがしい表情だった。

ケガに悩まされた競技生活でもあった。引退を考え始めたのは18年平昌五輪シーズン。4度目の五輪を区切りと捉え、ピークを合わせようと懸けていた。だが同シーズンW杯開幕戦で右肩を脱臼。いら立ち跳び乗った救急車のベッドの上で、後輩の小林潤志郎が初優勝して流れた君が代を聞いた。士気を持ち直すのに必死で、その後は毎年、まずは1シーズンずつと見据えてきた。5度目の代表に選ばれるも出場機会はなかった北京五輪後に、原田雅彦総監督らに相談し、引退を決断した。

4月からは所属先のコーチに就任する。主将は栃本翔平に託す。後進の育成に向けて「経験したことを100%以上還元したい」と思い描いた。海外遠征に戻り、ジャンプ人生を詰め込んだ現役ラストフライトをW杯プラニツァ大会(25日開幕、スロベニア)で披露する予定だ。【保坂果那】

◇伊東大貴アラカルト◇

◆最年少 下川中2年だった00年1月10日のHBC杯では当時中学生初となるラージヒル(札幌・大倉山)での公式戦出場を果たした。

◆W杯デビュー 02年3月13日のファルン大会(スウェーデン)に下川商高1年の16歳でW杯初出場。48位だった。

◆所属先 下川商高卒業後の04年4月から土屋ホームに入社し、09年4月から雪印(現雪印メグミルク)入りした。

◆W杯勝利 日本人6番目となる通算4勝。12年1月28日の札幌大会で初優勝し、同29日に連勝。同年3月4日のラハティ大会(フィンランド)、同8日のトロンハイム大会(ノルウェー)で優勝し、4勝を挙げた11-12年シーズンは個人総合4位。表彰台回数も日本人6番目の通算17度。

◆五輪 06年トリノ大会でデビューし、5大会連続代表。14年ソチ大会団体で銅メダルを獲得した。

▽06年トリノ ノーマルヒル18位、ラージヒル42位、団体6位

▽10年バンクーバー ノーマルヒル15位、ラージヒル20位、団体5位

▽14年ソチ ラージヒル9位、団体銅メダル

▽18年平昌 ノーマルヒル20位、団体6位

▽22年北京 出場なし

◆世界選手権 05年オーベルストドルフ大会(ドイツ)から19年ゼーフェルト大会(オーストリア)まで8大会連続出場。13年バルディフィエメ大会(イタリア)で初採用された混合団体で竹内択、伊藤有希、高梨沙羅で臨み、優勝した。

 

◇引退選手 ▽男子 佐藤友星(日大)、黒川龍(札大)、斉藤祐輝(東海大北海道)、曽根原郷(東京美装)、馬淵点(イトイ産業)、伊東大貴(雪印メグミルク)、伝田英郁(あさい農園)▽女子 津志田雛(下川商)、平山友梨香(信託ホーム)、茂野美咲(CHINTAI)、大井栞(早大)