日大が違法薬物問題に揺れるアメリカンフットボール部の廃部を決めてから一夜明けた29日、都内で臨時理事会を開き、酒井健夫学長と沢田康広副学長の辞任、林真理子理事長の減給50%(6カ月)を決めた。部の廃部に関しては一部の部員が部の存続の署名を大学本部に届けたが却下された。大学サイドも複数人の逮捕者が出たら廃部と8月には部員に通達。文部科学省からは今月中に、学内体制の改善計画の提出を求められていた。最近は大学幹部の内紛が起こるなど、元凶の部の廃部は必然でもあった。

不死鳥フェニックスが愛称の名門が83年の歴史に幕を閉じる。28日に「競技スポーツ運営委員会」で協議した後に沢田康広副学長がアメフト部の中村敏英監督に方針を伝え、同監督は部員と保護者にメールなどで連絡した。約110人の部員は戸惑いを隠せない。4年生は幹部を除いて引退。3年生以下の部員は再発防止を含め週末にミーティングを重ね、新体制の発足に備えていた。一部の部員が部の存続の署名を集めて大学本部に持参したが、大学側の結論が変わることはなかった。

廃部は「既定路線」だった。8月5日に学生寮で大麻などを隠し持ったとして3年生の部員が逮捕。アメフト部も無期限活動停止となった。その3日後の同8日、沢田副学長は全選手と保護者を集め「1人だけの個人の問題」とした上で「もし2人目の逮捕者が出たら廃部にする」と通達。それでも大麻問題に関して名乗り出る者はいなかった。それを信じる形で同10日には活動再開。しかし、その後さらに2人の逮捕者が出て、計11人の関与が学内報告書に上げられた。薬物のまん延と言わざるを得ない状況だった。

真面目に競技に打ち込む部員もおり、OB会は存続を求め、学内の一部でも廃部に反対する声が上がっていた。だが、10月末には日大への私学助成金が全額不交付となることが決定。今月中に文部科学省に学内体制の改善計画を提出する必要もあった。「いったんゼロにして再出発するしかない」などの意見が多数を占め、28日の競技スポーツ運営委員会で廃部が決まった。

18年5月の悪質タックル問題で出直しを期したはずだった。次期監督は公募され、69人の応募の中から立命館大出身の橋詰功氏が就任。コミュニケーションを深めながら立て直しを進めたが、大学側の意向で21年1月に退任。後任は日大OBの中村敏英氏が就任。日本アメリカンフットボール協会幹部は「実際は解任と聞いている。そこまでは改革が進んでいたのに白紙に戻った感覚だった」と嘆いた。

学生日本一を決める甲子園ボウルで関東最多21回の優勝を誇り、社会人と頂点を争った時代のライスボウルでも88~90年度の3連覇を含む4度の制覇。日大を代表する部活動だったアメフト部の廃止。最近は林真理子理事長が沢田康広副学長に辞任を迫るなど幹部も泥仕合の様相だ。元凶となった部の解体は不可避だった。

<日大アメリカンフットボール部> 

★創部 1940年(昭15)に創部。フェニックスの愛称は50年代に最強を自負した全日大の不死鳥倶楽部に由来。チームカラーは赤。

★初優勝 55年、のちにカリスマ監督となる篠竹幹夫が4年時に関東初優勝し、甲子園ボウルで関学大と引き分けて初優勝した。57年には単独で優勝。

★黄金期 59年に篠竹幹夫が監督に就任。特徴的なパス攻撃を繰り出すショットガン隊形を導入。徹底したスパルタ指導で常勝軍団を作り上げた。61年から4連覇、78年から5連覇を達成。03年に定年退職するまで44年間の監督在任中、17度の学生王座に導いた。

★低迷 関西勢中心に他大学が強化してきたこともあり低迷。甲子園ボウルは90年を最後に優勝から遠ざかった。17年に27年ぶりで甲子園ボウル制覇。21度目の優勝で名門復活と思われた。

★悪質タックル問題 DL宮川が18年5月の定期戦で、パスを投げた後で無防備だった関学大QB奥野に背後から激しくタックル、腰などに3週間のけがをさせた。社会問題に発展。日大の第三者委員会は当時の内田監督とコーチの指示を認定。日大は2人を懲戒解雇処分とした。