【松田悠良<下>】絶好調で「ここで終わろう」興味なかったコーチ業にのめり込むまで

日刊スポーツ・プレミアムでは、毎週月曜日にフィギュアスケーターのルーツや支える人の信念に迫る「氷現者」をお届けしています。シリーズ第71弾は松田悠良(28)が登場しています。

7歳で競技を始め、13歳で全日本ノービス選手権2位。14歳で全日本選手権に初出場して8位に入り、15年にはジュニアグランプリ(GP)シリーズで銅メダルを獲得しました。シニアGPシリーズには計4戦出場し、全日本には8度出場。21年の現役引退後は、コーチとプロスケーターの道を歩んでいます。

全3回の下編では、高校進学後の苦闘や右足首の大けがを経て、絶好調の中で現役を退き、指導者へ進むまでを辿ります。(敬称略)

フィギュア

◆松田悠良(まつだ・ゆら)1998年(平10)7月22日生まれ、名古屋市出身。名古屋市立東港中-中京大中京高-中京大。7歳で競技を開始。11年全日本ノービス選手権Aクラスで2位。12年チャレンジカップのノービスクラスで優勝し、14歳で全日本選手権初出場8位。13年全日本ジュニア選手権3位。15年ジュニアGPシリーズ・ログローニョ大会3位。16年アジアフィギュア杯優勝、シニアGPシリーズのロステレコム杯6位、NHK杯7位。全日本選手権には8度出場した。21年10月に現役引退を発表。22年「浅田真央アイスショーBEYOND」、24年「Everlasting33」に出演。25年8月から木下MAOアカデミーのアシスタントディレクター。身長157センチ。血液型B。

18年9月21日、オータム・クラシック女子フリーで演技を披露する

18年9月21日、オータム・クラシック女子フリーで演技を披露する

入試前日のお願い

「すみません。やっぱり、行かせてください」

中京大中京高の入試前日。松田は一度断った進学を、あらためて願い出た。

「当時の先生方には大迷惑をおかけしてしまったと思うんですけど、ぎりぎりで中京に入れてもらうことができました」

高校進学を機に、指導環境も変えることにした。新たに師事を望んだのは、浅田真央らを育てた名伯楽、山田満知子だった。

すぐに受け入れてもらえたわけではない。

当時は、今ほど選手が指導者を替えることが一般的ではない時代。返事をもらうまでに約1カ月。その間は、中京大のリンクで一人、自主練習を続けた。

18年11月16日、GPシリーズ第5戦ロシア杯 女子SPで演技を披露

18年11月16日、GPシリーズ第5戦ロシア杯 女子SPで演技を披露

新天地で待っていたのは、それまでとはまったく違うスケートだった。

邦和では、体力をつけ、スピードを出すことを重視してきた。小柄で力のなかった自分には、その指導が合っていた。

一方、山田と樋口美穂子から求められたのは、より繊細な滑りだった。指先の動きや体の向きまで、一つ一つの振り付けを細かく直された。

高校1年の頃は、対応するだけで精いっぱいだった。

「美穂子先生の振り付けが難しかったり、いろいろ適応していくのに苦戦していた記憶があります」

変化が結果に表れたのは、翌シーズンだった。

15年、ジュニアGPシリーズのログローニョ大会に出場。当初は補欠だったが、巡ってきた機会を生かして3位に入った。

当時の演技は、今でも「すごく良かった」と言われるが、自身ではほとんど見返さない。気になるところばかりが目につくからだ。それでも、新たな滑りが形になり始めたシーズンだった。

「成績とかよりも、スケートを変えてもらったなという印象です。あのタイミングで先生たちに習わなかったら、多分、変わらなかったと思います」

同門の村上佳菜子、宇野昌磨と練習する日々にも支えられた。

村上は私生活でも気にかけてくれた。

高校も同じ宇野は、授業を終えると、一緒に車でリンクへ向かった。試合の結果を欠かさず確認し、良い時よりも悪い時に「大丈夫?」と連絡をくれた。その短い言葉に、何度も助けられた。

支えてくれた2人とは、やがてシニアGPシリーズでも同じ大会に出場した。

高校3年だった16年、ロステレコム杯でシニアGPに初参戦。村上、宇野、田中刑事とともにロシアへ渡り、6位に入った。続くNHK杯では7位だった。

ジュニアからシニアへ、舞台は着実に大きくなっていた。しかし、高校生活の終盤になると、自身の年齢や技術を現実的に考え、トップとの差を意識するようになった。

「出させていただいているものの、ジュニアGPでもシニアGPでも、成績を残せなかったので。自分はトップを目指せないんじゃないかと思い始めていました」

翌17年春、中京大へ進学。迷いを抱えたまま、競技を続けた。

腰の疲労骨折も、3度、4度と繰り返した。けがをするたびに区切りをつけたいと思ったが、高校に続き、大学にもスケートの推薦で進んでいた。簡単にやめることはできなかった。

次の試合は、待ってくれない。ただ漠然と、その日にできる練習を重ねる日々だった。

「高校後半と大学4年間は、楽しいというより、綺麗事なしで言うと苦しかったなと思います」

18年11月17日、GPシリーズ第5戦ロシア杯 女子フリー 演技を終え、涙を見せる

18年11月17日、GPシリーズ第5戦ロシア杯 女子フリー 演技を終え、涙を見せる

なんとか飛行機に乗った

自分だけの武器が、欲しかった。

大技のトリプルアクセル(3回転半)を跳べるわけではない。ジャンプが際立って高いわけでもない。そこで磨いたのが、得意としていたループを2本目につける連続ジャンプだった。

「セカンドループに燃えていました」

中学生の頃から試合に取り入れてきた。大学2年だった18年には、ルッツ-ループやフリップ-ループにも挑んでいた。

6月、ルッツ-ループを繰り返し練習していた時だった。2本目のループを着氷した瞬間、右足をひねった。

患部はひどく腫れあがった。右足首の腱が外れるけがだった。負傷後は約2カ月、松葉づえで生活し、リンクにも行けなかった。

自力で歩行できるようになった後も、歩けば腱が外れる感覚がある。足元からは「プチプチ」と音がした。硬いスケート靴を履けば、痛みと違和感が残る。一度外れた腱は、自然には元の位置へ戻らないと告げられた。競技を続けるなら、腱をつなぎ留める手術を受けた方がいい状態だった。

それでも、すぐに手術を受ける決断はできなかった。そのシーズンは、GPシリーズの2大会に出場することが決まっていた。

「けがをした瞬間に、多分、人生で最後のGP2戦になるなという直感がありました」

休養中に山田らと話し合い、自分のペースで競技を続けるため、指導拠点を邦和へ戻した。練習を再開しても、跳べたのはループ、トーループ、サルコーだけ。右足で氷を突くフリップとルッツはできなかった。

10月のスケートカナダには、できることをやろうと前向きな気持ちで臨み、11位になった。2戦目までには、もう少しできることが増えるかもしれない。そんな期待もあった。

だが、足の状態は悪化していった。気持ちも、それに引きずられた。

11月のロステレコム杯を前に、思いは揺れた。人生で最後のGPになるかもしれない。だから、出たい。一方で、成績を残せない状態のまま、日本代表として出場していいのかという迷いもあった。

一度は、出ないと決めた。

直前まで、毎日のように泣きながらリンクへ行き、指導者に相談した。周囲は「自分でつかんだものなのだから、出ていいんだよ」と背中を押してくれた。現地へ行ってから決めればいい。そう言われても、簡単に気持ちを切り替えることはできなかった。

当時の記憶は、ほとんど残っていない。

「その辺は自分の中でも消しちゃったくらい、しんどかったんだと思います。なんとか飛行機に乗って、なんとか靴を履いて、なんとか試合に出たという感じでした」

最後まで滑り切り、9位になった。

それでも、足の状態は一向に上向かない。次に控える全日本選手権にも出場するつもりだったが、今度は、この先も競技を続けるための決断を迫られた。

周囲からは、たった1度の全日本を諦めても、今後のために足を治した方がいいと勧められた。

12月、全日本への出場を断念。先送りにしていた手術を受けた。

大会が始まった時、一人、病室にいた。テレビをつけても、見続けることができない。中継をつけては消し、最後まで見ることはできなかった。

「本当にしんどかったですね。あれは」

術後のベッドで写真に納まる松田悠良(本人提供)

術後のベッドで写真に納まる松田悠良(本人提供)

「頑張って」が苦しかった

翌19年の2月後半から3月頃には、再びスケート靴を履いた。

ジャンプを始めたのは、夏頃。足への恐怖は消えなかった。糸は今も右足に残り、足首は以前より硬くなった。元の感覚には戻らなかった。

それでも、年末の全日本選手権に出場。フリーまで滑り、21位に入った。

周囲は言ってくれた。

けがから復帰して、全日本でフリーまで滑れるなんてすごい。よく頑張ったね、と。

励ましてくれる気持ちは、率直にうれしかった。ただ、その言葉を受け止めきれない自分もいた。

「あの日、けがをしなかったら、ここまで行けていたんじゃないかという自分とのギャップがすごくて。リハビリをしている時も『頑張っているね』『頑張って』と言われるのが、すごく嫌でした」

周囲が見ていたのは、けがから立ち上がった自分。本人が見ていたのは、けがをしなければ、もっと先へ進めていたかもしれない自分の姿だった。

2020-21シーズンSPに臨む松田悠良(本人提供)

2020-21シーズンSPに臨む松田悠良(本人提供)

大学4年で、競技生活に区切りをつけようと思っていた。

最後と決めた全日本では、自分なりに満足できる演技をしたい。それだけを願った。

試合でミスをしないことが、自分の強みだった。「悠良ちゃんは絶対にミスをしないよね」と言われてきた。その自負もあった。

8度目の出場となった20年全日本選手権。SPで2度転倒し、28位に終わった。フリーには進めなかった。

「全てが崩れ去ってしまったみたいなところもありました」

このままでは終われなかった。

愛知県代表として国体への出場が決まっていた。全日本後は数週間休み、今度こそ最後の演技にしようと練習を再開した。

その矢先、新型コロナウイルスの濃厚接触者になったと知らされた。自宅で待機しなければならない期間と、大会の日程が重なった。

出場できない。

全日本でも、国体でも、自分が望んだ形で終えることはできなかった。

「絶望から、本当に立ち直れないと思いました。もういいかなって」

スケートは、もういい。

指導者になる未来など考えてもいなかった。コーチは、どちらかといえば、やりたくない仕事の一つだった。

現役ラストシーズンにフリーの演技をする松田悠良(本人提供)

現役ラストシーズンにフリーの演技をする松田悠良(本人提供)

やりたくなかった仕事

自宅待機が明けた頃、今度はコーチの川梅みほが濃厚接触者となり、仕事を休まなければならなくなった。

指導者が足りない。

ヘッドコーチの成瀬葉里子から「手伝ってくれない?」と声をかけられた。

落ち込んでいた自分をリンクへ呼び戻そうという気遣いなのか。単純に人手が足りなかっただけなのか。その意図は、今も分からない。

終わったはずの場所へ、今度は教える側として戻った。

その依頼が人生を変えた。

最初は、幼い選手にも厳しく接した。自分自身が厳しい指導を受けて育ってきたため、それが上達するために必要なことだと思っていた。

「ちっちゃい子にも、すごく厳しく教えちゃっていましたね」

成瀬からは何度も諭された。

時代も違う。厳しければいいということではない。

今は、当時教えていた子供たちに申し訳なさと感謝を感じている。未熟な自分と向き合ってくれたからこそ、教えることを学べた。

本当に考えさせられたのは、その先だった。

自分の中にある感覚を、うまく言葉にできない。伝えたつもりでも、相手には届かない。どうすれば理解してもらえるのか、分からなかった。

「人に伝えるのは、こんなにも大変なのかって。自分が思っていることを自分でやる方が、よっぽど楽だったんです」

選手なら、できないのは自分の責任ですむ。コーチは、自分の感覚を言葉にし、目の前の選手ができるようになるまで向き合わなければならない。

難しい。難しいからこそ、負けたくなかった。

「きっと、スケートを始めた時と一緒で、負けず嫌いの心に火を付けたんだと思います。それで、コーチにのめり込んでいきました」

7歳の時と同じだった。

できない。だから、できるようになりたい。

選手としては届かなかった夢舞台へ

指導する傍らで、練習も再開した。

誰かに頼まれたわけではない。これからも続いていく氷の生活に、競技者としての悔いを残したくなかった。選手とコーチを並行する生活が、約半年続いた。

21年夏、調子は「今までにないくらい」良かった。周囲の指導者も、このシーズンは結果を残せると感じていたはずだった。

だが、8月のサマーカップを前に、心は決まった。

ここで終わろう。

家族にだけ、次の試合を最後にすると伝えた。コーチには知らせなかった。

「その時になぜそう思ったのか、なぜそこまでの決断ができたのか、自分でもわかりません」

シーズンの幕開けを告げるサマーカップを滑り終え、引退の意思を伝えた。調子が良かっただけに、周囲からは「なぜ今なのか」と驚かれた。

全日本で「これが最後」と告げるでもなく、シーズンの終わりを待つでもない。自分の中で「ここ」と決めた時が、終わる時だった。

「ここって思ったら、誰に言われようと続けない。最後の最後で、変な頑固さが出たのかな(笑い)」

決して思い描いた終わり方ではなかったが、すがすがしかった。次に進みたい道は、とっくに見えていた。

21年10月、現役引退を発表。自分が頑張る楽しさよりも、教える楽しさの方が勝っていた。

24年3月28日、浅田真央公開練習 アイスショー「Everlasting33」 練習で情感あふれる演技を見せる

24年3月28日、浅田真央公開練習 アイスショー「Everlasting33」 練習で情感あふれる演技を見せる

現役時代、周囲の目を気にした。普通の学生のように、休日には遊びにも行きたかった。浅田のように、全てを懸けて一つの目標へ突き進むことはできなかった。

「自分がなぜオリンピックにたどり着けなかったかという理由も、私は全部理解しているんです」

自分ができなかったことは、自分の言葉で伝える。五輪にたどり着いた浅田の姿も、子供たちに見てもらう。異なる経験を持つ2人だからこそ、教えられることがある。

競技を終えてから、過去の見え方も変わった。

「私はうまいような人生を歩んできていないんです。だけど、それが逆に、自分の強みかなと今は思います」

それが、自分の武器だった。

選手として届かなかった夢舞台へ。今度は浅田とともに、教え子たちを連れていく。(おわり)

愛犬を抱いてインタビューに臨む松田悠良(本人提供)

愛犬を抱いてインタビューに臨む松田悠良(本人提供)

スポーツ

勝部晃多Kota Katsube

Shimane

島根県松江市生まれ。2021年4月入社。高校野球の神奈川担当などを経て、同年10月からスポーツ部に配属。バトル班として新日本プロレスやRIZINなどを担当し、故アントニオ猪木さんへの単独インタビューや武藤敬司氏の引退試合、那須川天心―武尊などを取材した。 23年2月から五輪班に移り、夏季競技はバレーボールを中心に担当。同年秋のW杯や24年夏のVNLなど。冬季競技はフィギュアスケートをメインに務め、全日本選手権は2年連続で取材中。X(旧ツイッター)のアカウントは「@kotakatsube」。