「勝って泣く顔があります。負けて笑う顔があります」。試合終了直後、NHK石川洋アナウンサーの残した名実況が、延長17回、3時間37分の死闘のすべてを物語っていた。

98年8月20日、第80回大会の準々決勝。春夏連覇を狙う横浜と、打倒横浜の最右翼とされたPL学園が激突した。両者は同春の選抜でも対決。横浜が「3-2」で勝利を収め、そのまま頂点に立った。後に両校から計7人のプロ野球選手を輩出する実力校同士の再戦が、球史に残る名勝負となることは、ある意味で必然だったのかもしれない。

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試合は、春の雪辱を期すPL学園が、終盤まで主導権を握る展開で進んだ。だが、PL学園がリードしても、横浜が追い付く。延長11回表、横浜が1点を勝ち越すと、その裏、PL学園が同点にする。延長16回にも、両校が1点ずつ得点。甲子園の銀傘の下に歓声とため息が、プレーごとに交錯した。

異様な雰囲気に包まれながら、両校の球児たちは、どんな思いでプレーしていたのだろうか。

「2番右翼」で出場した井関雅也(現社会人野球・東芝ヘッドコーチ)は、松坂から2安打を放ちながら8回裏、代打を送られた。打席へ向かったのは、故障続きで控えに回っていた主将の平石洋介(現楽天監督代行)。ベンチに下がる井関にすれば「総力戦」は覚悟の上だった。

「僕らは甲子園で横浜と対戦することしか考えてませんでした。だから、大阪府大会では絶対に負けられないという思いが強かったです。ずっと松坂しか見てませんでした」

「4番三塁」の古畑和彦(現明治神宮外苑野球場販売部)は、ライバル心を隠すことなく、松坂に立ち向かった。結果は6打数無安打2四球。延長17回、試合が終わった瞬間、同僚のエース上重聡(現日本テレビアナウンサー)が「負けて笑い」、その表情がクローズアップされた。その裏で、古畑はむせび泣いた。

「松坂からは選抜で安打を打ってましたし、個人的には全打席で本塁打を狙ってました。負けた時は悔しくて仕方なかった。高校野球が終わるのと、横浜に負けた思いで…」

勝負の世界、とりわけ高校球児の戦いは、思いが純粋な分、時に残酷なまでの光景を映し出す。その半面、同じ時空間を共有したことが、かけがえのない「絆」を生むこともある。

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熱闘から約10年後の09年1月。別の道に進んだ両校の元球児約30人が都内に集まり、合同の「同窓会」を開いた。無論、卒業後の立場は違う。ただ、1泊2日でゴルフを楽しみ、酒を酌み交わし、思い出話に花を咲かせた。発起人は、松坂大輔だった。

PL学園の「7番捕手」として出場した石橋勇一郎(現米国在住)は、今も松坂の米国自主トレなど、サポートを惜しまない。

「あの球場で一緒に戦った仲間。甲子園がなかったら、こんな関係はなかったと思います。みんなを集めてくれたのが大輔。思い出を共有できる仲間の関係は、これからもずっと続くと思います」

松坂を強烈に意識し過ぎた末、その松坂の前に、PL学園は散った。だが、流した涙が乾いた頃、それまで口にしていた「松坂」の呼び名は、いつしか「マツ」「大輔」に変わった。そして準決勝、決勝。濃密な闘いが、そんな男たちを、さらに増やしていった。(敬称略=つづく)【四竈衛】

PL学園OB井関雅也氏
PL学園OB井関雅也氏
PL学園OB石橋勇一郎氏
PL学園OB石橋勇一郎氏
PL学園OB古畑和彦氏
PL学園OB古畑和彦氏