昨夏の高校野球宮城県大会で準優勝した気仙沼向洋高が10日、東日本大震災の被災後初の練習を気仙沼西高、本吉響高と合同で行った。自主参加だったが、3校合わせて31人が集まり、ノックや打撃練習に汗を流した。海沿いにある気仙沼向洋高は、校舎が壊滅的なダメージを受けたため、新学期は学科ごとに県内の3校(本吉響高、気仙沼西高、米谷工業高)に分かれて授業を行う。校舎の復旧のめどは立たず、今後、全員が集まって練習できるかも分からないが、県立の星が復興への第1歩をスタートさせた。

 選手らは久しぶりに白球を追い続けた。グラブにうまく収まらず、バットにも思うように当たらない。だが、被災前まで当たり前だった感触が、とても懐かしかった。気仙沼西高のグラウンドで約3時間、かみしめるように体を動かした。

 気仙沼向洋高の川村桂史監督(37)は「今後どうなるのかという、子どもたちの不安を取り除きたかった。来られる子だけでもいいから、動いてみよう」と、8日の生徒集合の際に選手へ呼び掛けた。部員24人中18人が顔を出した。気仙沼西高の小松英夫監督(44)、本吉響高の小野寺三男監督(44)とともに、3校計31人を指導。他校の厚意で送られたボールやグラブ、ウエアにも助けられた。

 3月11日の地震発生時、気仙沼向洋高は打撃練習中だった。左翼付近が地割れし、膝の高さまで水が噴き出した。部室にあった財布や携帯電話を取りに戻る時間もなかった。しかし、練習着で避難する選手の多くが、グラブを脇に抱えていた。「みんな自然に持っていたと思う。他は全部流されましたけど」と三浦岬(みさき)主将(3年)。三浦主将は実家が流され、避難時と同じ格好でこの日の練習にやってきた。離島の大島から2時間かけて来た部員もいた。

 がれきの山となった町を見れば「野球をやっていていいのか」という気持ちにもなる。しかし、仲間が折れかけた心を支えてくれた。昨夏の宮城大会で部史上初の準優勝。準決勝で破った東北が今春のセンバツで戦っていた。「自分たちも力をもらった。(野球ができないと)諦めそうになった時もあったけど、自分たちが諦めたら、亡くなった方や、もっとつらい思いをしている方に申し訳ない。全力疾走や声で励みにしてもらえるように」と野球ができる感謝の思いを胸に、できる限りのことをすると決めた。

 校舎の損傷が激しいため、21日の入学式と始業式の後、選手は学科別に県内の3校に分かれて新学期を迎える。市外の学校に通う生徒もおり、全員が集まって練習することは困難だ。今後の見通しも立たないが、三浦主将は「時間があったら体を動かすとか、避難所ででもいいと思う。支援してくれる人に恩返しできるようなプレーをしたい」と、全員でグラウンドに立てる日を信じている。【今井恵太】