<高校野球秋季中国大会:倉敷商6-3早鞆>◇6日◇準決勝◇マツダスタジアム

 23年ぶりに、伝説の右腕が甲子園の土を踏むことになりそうだ。89年夏の甲子園で仙台育英のエースとして凖優勝に導いた、元ダイエーの大越基(もとい)監督(40)率いる早鞆(はやとも、山口)が倉敷商(岡山)に敗戦。鳥取城北(鳥取)が大社(島根)に7-0、7回コールドで大勝したため、決勝進出の2校プラス残り1枠で、来春センバツに選出される可能性が出てきた。

 89年夏の甲子園を沸かせた大越監督率いる早鞆が、初のセンバツ出場に近づいた。古豪倉敷商に準決勝で敗れて「当確」ランプこそ点灯させることはできなかった。エース間津裕瑳(2年)が1回に大量5失点。それでも主将の宮崎竜之介内野手(2年)の2度の適時二塁打など、チーム一丸の戦いぶりで3-6と食い下がった。

 甲子園に2度出場し3年春ベスト8、夏は準優勝。プロ生活を11年経験した大越監督は「あと1勝を意識したんでしょう。球場もまったく違い、雰囲気にのまれていた」と経験値の差を強調しながらも、「倉敷商は一気にたたみかけてきた。ああいうチームを目指したい」と相手をたたえた。広島の本拠地マツダスタジアムに浮足立つナインに、精神面の向上も求めた。

 巡り巡ってここまでたどり着いた。早大中退後、米国に渡り、野球の原点に触れた。生き残るために全力で投げる、打つ、捕る。ハングリーかつ心から楽しむ外国人選手に囲まれ「視野が広がった」と言う。プロでは投手から外野手に転向し、通算50安打。主に代走要員として起用された。引退後は指導者として再び甲子園を目指すことを決意。山口・下関市の東亜大に進み、教員資格を取得した。07年、早鞆に赴任し、09年に監督として指揮を執り始めた。「早鞆が低迷している。ぜひとも復活させてほしい」との声が届くようになった。60年代の母校の輝きを再び、と願うOBの思いに、いつしか心は染まっていった。

 宮崎、間津ら“大越チルドレン”は「いろんな経験を教えてもらえる」と口をそろえる。「甲子園で育てられ、プロに入れた。自分と同じような子供たちが出てきてくれればうれしい」と大越監督は言う。「選ばれないだろうと思いながら」との思いで、出場校が発表される1月27日の吉報を待つ。【佐藤貴洋】

 ◆中国・四国の選考事情

 割り当てられた一般選考5枠は中国2、四国2、残り1。秋季中国大会で決勝進出した倉敷商(岡山)鳥取城北と四国大会決勝進出の鳴門(徳島)高知が当確。残り1枠は4強入りの早鞆、大社(島根)高松商(香川)明徳義塾(高知)が有力で、地域性、試合内容などが参考材料となる。近年は中国地方の「3枠」が続いている。

 ◆大越基(おおこし・もとい)1971年(昭46)5月20日、宮城・宮城郡七ケ浜町生まれ。仙台育英ではエースとして89年春、夏の甲子園に出場し、夏は吉岡雄二擁する帝京に決勝で敗れた。早大進学も中退し、米マイナーリーグ1Aのサリナスに入団。92年ドラフト1位でダイエー(現ソフトバンク)に入団し、外野手転向を経て03年に引退。04年4月に山口・下関市の東亜大に入学し、07年から早鞆の教員に、09年から監督に就任した。

 ◆早鞆高校

 1901年(明34)に阿部ヤス女史家塾を起こし、48年(昭23)に現校名に。菁菁館特別進学、普通科進学、普通科普通、自動車工学科、生活クリエイト科、衛生看護科がある。甲子園は64、66、67年の夏に出場し64年は準優勝。09年に大越基氏が監督に就任。主なOBに歌手の山本譲二、プロ野球では元大洋の古田忠士、元中日の大河原栄ら。校訓は「堅忍不抜」で、生徒数785人。林洋一郎校長。学校所在地は山口県下関市上田中町8の3の1。