日本ハムで82年に最多勝、最高勝率のタイトル獲得など活躍した工藤幹夫(くどう・みきお)氏が13日午前1時40分、肝不全のため、秋田市内の病院で死去した。55歳だった。逮夜・通夜は17日午後3時、葬儀・告別式は18日午後1時から秋田市山王2の4の15、秋田典礼会館で。喪主は長男壮史(まさふみ)氏が務める。

 工藤氏は秋田県出身。本荘から78年ドラフト2位で日本ハムに入団。高校時代の下手投げからサイドスローに転向し、81年の日本シリーズでは救援で2勝をマーク。82年には先発として20勝4敗、防御率2・10をマークし最多勝、最高勝率、ベストナインに輝いた。

 後期優勝を果たした同年10月9日、前期優勝の西武とのプレーオフ第1戦で先発。9月に右手小指を骨折し、プレーオフ出場が絶望的といわれていたが、サプライズ起用された。当日の球場入りまでギプスを付ける徹底ぶりで、用意周到に西武戦6勝右腕の登板準備をさせていた故大沢啓二監督の奇襲作戦は、今でも球界の語り草となっている。

 83年に右肩を痛め、88年に野手転向し再起を目指したが、1軍出場はかなわず同年限りで現役を引退。引退後は秋田に戻り、スポーツ用品店を経営するかたわら、地元で野球普及に尽力していた。最近は、球団関係者に「体調が悪い」と漏らしていたという。日本ハム最後の20勝投手が天国へ旅立った。

 ◆工藤幹夫(くどう・みきお)1960年(昭35)9月30日、秋田県由利本荘市生まれ。本荘では甲子園出場なし。78年ドラフト2位で日本ハム入団。79年4月12日南海戦でプロ初登板初先発、高卒1年目投手の開幕4戦目先発は当時の最速タイ記録だった。小指骨折でぶっつけ本番だった82年プレーオフ第1戦は、7回途中3安打無失点の好投もチームは0-6で敗戦。通算78試合30勝22敗、防御率3・74。右投げ右打ち。