元世界王者である川島ジムの川島郭志会長に言われたことがある。「顔を見るのが嫌だったんですよ。久しぶりに会うと、世界戦が近くなったと思って。プレッシャーになりました」。

94年5月、ヨネクラジム5人目の世界王者川島郭志と米倉会長(右)
94年5月、ヨネクラジム5人目の世界王者川島郭志と米倉会長(右)

 以前は系列のテレビ朝日と本紙がヨネクラジム興行は主催や後援だった。川島会長が日本王者になり、世界間近で担当になった。世界戦では発表前から顔を出し始め、恒例の長崎・諫早キャンプに毎回同行し、スパーリングに密着した。今は懐かしげに当時を話しての思い出のひと言だった。

 足しげく通い、ボクサーだけでなく、記者にとってもジムには思い出が詰まっている。その超名門が8月で幕を閉じる。90年に大橋ジムの大橋秀行会長が日本の世界挑戦失敗を21で止めた。当時は他ジムの世界戦も外国人選手の公開練習などの場になり、自然と取材機会は多くもなった。

 米倉健司会長はメルボルン五輪に出て、プロで2度世界挑戦した。アマ上がりの右ボクサーのテクニシャンで人気も、プロではファイターを好んだ。昭和ヒトケタ世代ながら、堅い伝統よりもプロらしい派手さを喜び、三度がさのガッツ石松も生まれた。

 70歳代までミットを持ち、昨年10月の最後の興行でもセコンドについていた。鼓舞する姿は会長と言うよりも熱血トレーナー。帝拳ジム本田明彦会長がプロモーター、協栄ジム金平正紀会長がマネジャーのトリオなら、理想的トロイカと思ったこともあった。

 25日で83歳で高齢が閉鎖要因になった。車の運転はスピード狂で怖い思いをした。数年前に運転を辞め、代わりに夫人が運転。昨年は興行後に夫妻がタクシーで帰る姿を見てちょっと安心した。歳には勝てずにジム閉鎖は流れだが、実に残念だ。

リングの回りには歴代王者のパネルが飾られたヨネクラジム(撮影・河合香)
リングの回りには歴代王者のパネルが飾られたヨネクラジム(撮影・河合香)

 創設55年目で36人が世界、東洋太平洋、日本王者になった。63年に大塚でジムを開き、69年に目白へ引っ越し。JR山手線の車窓から見える木造2階建て。外観以上に内部は昔の趣がある。天井や壁には王者のパネル、会長の現役時のポスター、王者認定証、心構えなどの標語がところ狭しと張られている。一番奥にはトロフィーが並ぶ。

JR線沿いにある木造2階建てのヨネクラジム(撮影・河合香)
JR線沿いにある木造2階建てのヨネクラジム(撮影・河合香)

 ボクシングジムと言うよりも、拳闘道場と言った方がふさわしい。マニアにとっては垂ぜんの宝物が山のよう。ジム自体をボクシング文化遺産として保存し、業界念願のボクシング博物館にしたら。無理は承知でそう思った。一つの時代が終わった。【河合香】