色付きの眼鏡からのぞく鋭い眼光。声を荒らげて政治家や著名人にかみつくことも。死去したやしきたかじんさんは、人当たりの良い従来の司会者像とは対極の存在だったが、視聴者の怒りや不安を代弁する型破りなスタイルで人気を集めた。

 デビュー前、歌手として京都でクラブ回りをしていたころ、美声とともに酔客との騒動が武勇伝として話題になり、1970年代から大阪のラジオ番組に起用された。80年代半ばには司会を任され、毒もある奔放なトークを持ち味にして支持された。

 負けん気が強く、努力家だった。「(人気パーソナリティーの)浜村淳さんに勝つんや」とむさぼるように映画を見て、テレビ番組もくまなくチェックした。日常の鬱憤(うっぷん)を寄せるラジオのリスナーに、ぶっつけ本番でも気の利いたコメントを瞬時に返し、笑いも生み出せたのは、日頃の蓄積があったからこそ。

 80年代後半からはテレビを活動の中心に。ワイドショーでは、生活者の視点で時事問題を積極的に取り上げ、視聴率を稼いだ。行き過ぎた発言が問題となることもあったが、「時代の空気に敏感で、何が視聴者の琴線に触れるのか、本能的に分かった」と民放関係者。

 在京のテレビにはほとんど出演せず「アンチ東京」を打ち出したことも、関西の視聴者の好印象につながった。橋下徹・大阪市長を“茶髪弁護士”として自らの番組で全国区のタレントに育て上げ、政治家への転身を後押しした。

 「やっぱ好きやねん」など女性の繊細な心を描いた持ち歌のように、情や義理に厚かったと仕事仲間は口をそろえる。番組でわざと悪態をついたり、若い女性ゲストに照れたりする姿は「いたずらっ子」のようにも見え、多くの人がテレビ界の“風雲児”を愛した。