映画監督で脚本家の新藤兼人(しんどう・かねと)さん(本名・新藤兼登=しんどう・かねと)が29日午前9時24分、老衰のため東京都港区赤坂の自宅で死去した。100歳だった。「原爆の子」「裸の島」などリアリズムを追求した作品で知られ、94年に死去した妻で女優の乙羽信子さんはよき協力者だった。最晩年まで製作意欲は衰えず、新作の構想も練っていた。昨年の国内映画賞を総なめした「一枚のハガキ」が遺作となった。

 夢で見るほど映画を愛し、人生をささげた新藤さんが監督として天寿を全うした。所属の近代映画協会関係者によると、29日朝に容体が急変、同居していた孫の風さんにみとられ眠るように息を引き取った。次男で同協会代表の次郎さんも神奈川県内の自宅から毎日通っていたが、前日28日まで変化はなかったという。

 最後に公の場に姿を見せたのは4月22日、都内で開かれた100歳の誕生パーティー。「これが最後の言葉です。ありがとう。さようなら」とスピーチし、来場者200人を和ませた。

 製作意欲は最後まで衰えなかった。監督賞と作品賞を受賞した昨年12月28日の日刊スポーツ映画大賞の授賞式後、「周囲が許せば、もう1本。100歳の映画を撮りたいと思う」と語った。クマ親子を描く作品と自分の母親を題材にした映画2本を構想していた。

 とはいえ、日本最高齢の現役監督の肉体は限界を超えていた。最近は食事以外はほぼベッドで過ごした。今年1月には「映画のことを考えると眠たくなる。目が覚めたら今度は何を撮ろうかな、撮る時間があるかなという感じ。ある日考えが止まると死ぬ。幸せな一生」などと話していた。

 苦境を乗り越えた映画人生だった。脚本家として評価を高め、50年に松竹を退社。独立プロの近代映画協会を設立して監督デビューした。故郷広島を舞台にした52年「原爆の子」で戦後初めて原爆を題材にした映画を製作。ところが同映画以降、ヒットに恵まれず、倒産の危機に立たされた。大映を退社した乙羽信子さん(享年70)を主演に起用し続け、「これが最後」のつもりで製作費500万円の「裸の島」を撮影。60年に公開すると、モスクワ国際映画祭でグランプリを獲得。各国から買い付けが相次ぎ、借金を返済した。前妻が亡くなった後の78年、資金集めなども含め苦楽をともにした乙羽さんと結婚。周囲に「最高の女優」と語るおしどり夫婦だった。

 遺作「一枚のハガキ」は、44年に海軍に召集され、部隊100人中94人が戦死した壮絶な体験が題材。反戦をテーマにし続けた新藤さんにとって、どうしても映画化したかった体験だった。それまでヒットに恵まれず悩んだこともあったが同映画は興収1億円を突破。「見られる映画をつくれば、人は見てくれる。若い人にそういう気になってほしい」。信念を貫いた新藤さんは最後まで映画界にエールを送り、旅立った。

 ◆新藤兼人(しんどう・かねと、本名・兼登=かねと)1912年(明45)4月22日、広島県生まれ。34年に京都・新興キネマ現像部に入り、シナリオを書き始め、溝口健二監督に師事。44年に松竹大船撮影所脚本部に移籍。同年4月に軍に召集され、終戦は宝塚海軍航空隊で迎えた。50年に松竹退社し、近代映画協会設立。51年「愛妻物語」で監督デビュー。代表作は「裸の島」「午後の遺言状」など。生涯に手掛けた脚本は250本以上。02年に文化勲章受章。