新ヒロインが初の五輪に臨む。バレーボール女子のリオデジャネイロ五輪出場権を獲得した日本。ウイングスパイカー長岡望悠(24=久光製薬)は前回ロンドン五輪後に台頭した新エース候補で、今大会ここまで6試合でチーム最多の合計89点を挙げ、五輪切符獲得に貢献。8年前に最愛の父を亡くしたが、心身とも成長してコートに立っていた。

 コートに戻った第4セット。長岡は徹底マークを受けても、青い壁に立ち向かった。自らの手でセットポイントをつかみ、表情を引き締める。強気のスパイクが、沈みかけていた日本の仲間たちを立ち直らせた。今大会、ここまで強力なスパイクで6試合中3試合でチーム最多の得点をマークするなど大きく成長。木村主将に並ぶMVP級の活躍で、五輪切符獲得に貢献した。

 今大会の開幕を4日後に控えた10日の昼下がりだった。「先生、電話して良かったです」。長岡は母校東九州龍谷(大分)を率いる相原昇監督(47)の携帯電話を鳴らした。報告のつもりだった電話で思い出したのは原点だった。

 「お父さんのこと、忘れんなよ。分かった? 今こそ、やぞ。じゃあね」

 約10分後、電話を切る際に恩師から念を押された。今から8年前の08年1月、長岡が高校1年の冬だった。「何か不思議な感覚がした」という相原監督が、練習を途中で切り上げ福岡の病院にやって来た。長岡の父経国(みちくに)さんはがんと闘病中だった。相原監督に「望悠、ちょっと外に出とけ」と促されると、長岡は病室から出た。

 「望悠、入れ」と言われ戻ると、父は号泣していた。長岡も泣いた。翌日、経国さんは50歳で短い生涯を終えた。告別式には仲間全員が春高バレー予選の優勝旗を持ち集合。全国制覇した3月の本大会でのタイムアウト時、監督の手には父の写真があった。相原監督は「それまですごく甘えん坊だった望悠が、感謝とか人を大事にすることを知った。1球への厳しさが変わったのもあれから」としんみり語る。

 「俺ね、あの時(病室で)『望悠を全日本のエースに導くから、心配しないで』って言ったんだ。父ちゃんは『力になれなくてごめん。何もできなくて…』と、ごうごう泣いて。全日本で五輪…。この電話で原点を思い出してな。恩返しする時だぞ」。大会前の電話で恩師に告げられ、長岡はあの日のやりとりを初めて知った。何度も打ち続けたスパイクに、思いは宿っていた。【松本航】

 ◆長岡望悠 ながおか・みゆ。1991年(平3)7月25日、福岡・山川町(現みやま市)生まれ。小2から競技を始め、東九州龍谷では09年に春高バレー、全国高校総体、国体の高校3冠。10年に久光製薬入り。12年はVリーグ制覇にMVPとベスト6獲得。179センチ、68キロ。