取材を終え写真に納まる石垣市役所の砂川真二さん(左)と我那覇宗敬さん(撮影・垰建太)
取材を終え写真に納まる石垣市役所の砂川真二さん(左)と我那覇宗敬さん(撮影・垰建太)

最速163キロ右腕、ロッテドラフト1位の佐々木朗希投手(18=大船渡)が1日、いよいよプロ野球選手としてキャンプインを迎える。プロで羽ばたく礎を南の島で作る。そのキャンプ地、沖縄・石垣市とは、本人さえ知らないかもしれない“縁”があった。

   ◇   ◇   ◇

「私たちがお世話になったところに朗希君が行く。何かの縁を感じます」としみじみ話すのは、佐々木朗が生まれ育った岩手・陸前高田市の戸羽太市長(55)だ。実は、石垣市の中山義隆市長(52)とは旧知の仲だという。

2人の首長の出会いは「青年市長会」だった。初当選が49歳以下の市長が対象になり、現在では全国で70人前後が会員だという。戸羽市長が初当選したのは11年2月。就任4週間後に、東日本大震災が起きた。大津波により、陸前高田市の市街地は壊滅状態となった。戸羽市長も佐々木朗も、家族を亡くしている。

未曽有の災害の2カ月半後、青年市長会会員がそろって陸前高田を訪れた。中山市長もその時初めて陸前高田を訪れ、荒野となった市街地を見た。何とかしなければ-。会員たちで仮設庁舎内に「復興支援センター」を創設。会員の都市から職員が陸前高田へ臨時派遣され、ボランティアや復興事業に務めた。戸羽市長は「市役所では手が回らない仕事をしてくれた」と今でも感謝を忘れない。

中山市長はその後も2度、追悼式典などで陸前高田を訪れている。復興の経過を客観的に見つめながら「インフラの部分の復興は整ってきていると思うんですが、街全体の人の戻りはまだ十分ではないと思います」と冷静に話す。そして、思いを添える。

「佐々木君たち若い人が頑張っている姿を見せれば、地域の皆さんには元気を与えられるんじゃないかと思います」。

   ◇

「本当にここに街があったのか。面影もなかったです」。石垣市からも12年秋に1週間、2人の職員が、陸前高田の復興支援センターへ飛んだ。我那覇宗敬さんと砂川真二さん(ともに40)だ。

我那覇さんは当時、石垣島ロッテキャンプの市役所での担当者だった。11年3月11日午後、あの日あの時もちょうど、キャンプについての会議をしていた。「石垣市にも全域に津波注意報が出て、会議が終わりになりました。テレビにかじりつきながら、言葉が出ませんでした」。

ブラウン管に映っていた厳しい現実は、震災から1年半がたっても目の前に広がっていた。ボランティアでは道路側溝をさらうこともあった。いまだに誰かの思い出の写真が泥の中から見つかる-。「機械があれば、とも思いました。でもそういう品があるから、やっぱり手作業で…」(砂川さん)。思いを込めて、泥と向き合った。

それでも、陸前高田の人たちは温かかったという。「南の果ての石垣島から来たということで、反応はすごかったです。『え~っ、わざわざ!?』『寒いでしょう?』みたいな感じで」(我那覇さん)。そして「こんなことがあったんだよ、他の皆さんにも伝えてね」と被災地の思いを託された。今でも、そのシーンが忘れられないという。

2人が陸前高田を訪れた当時、すでに佐々木朗は大船渡の仮設住宅で家族と暮らしていた。それでも「人生の中でも大きい経験でした」(我那覇さん)という陸前高田の地で育った子どもが立派に育ち、プロ野球選手として自分たちが暮らす石垣島へやって来る。「やっぱり何か縁があるんだな」「こういうところでつながることがあるんだな」と2人は運命を感じている。キャンプにも応援に行くつもりでいる。

   ◇

亜熱帯の気候に慣れるため、佐々木朗が石垣島に先乗りしてから、1週間がたつ。ホテルと球場を行き来するだけの毎日だが、石垣市民に声を掛けられることも多いようだ。「たくさん話しかけてくださるので、話しやすいなと思います」と、島の和やかな雰囲気を楽しんでいる。

震災で亡くなった父とは、千葉へ旅をした。郷土は石垣島に縁があった。さあ、キャンプイン。いよいよ袖を通すロッテのユニホームへの導きは、やはり運命だったのかもしれない。【ロッテ担当 金子真仁】

囲み取材でロッテ春季キャンプのボードを手に写真に納まるロッテ佐々木朗希(撮影・垰建太)
囲み取材でロッテ春季キャンプのボードを手に写真に納まるロッテ佐々木朗希(撮影・垰建太)