その革靴がすり減るたびに、全国の猛牛ファンは声を上げる。オリックス事業企画部宣伝グループでSNSでの情報発信を任されている仁藤拓馬氏(31)は、必死で球場を歩き回っている。現在、新型コロナウイルス感染拡大防止の影響もあり、報道陣は取材規制中。大阪・舞洲にある球団施設で行われている自主練習の取材は自粛中。「情報発信の場」は球団広報メールか球団公式SNSに限られている。
「選手の情報を発信するコンテンツとして、球団公式インスタやツイッターなどのSNSを使っています。選手の素顔をファンのみなさまに届けることができたらなと思って、仕事に取り組んでいます」。
仁藤氏は10年に現役引退。その後は先乗りスコアラーを3年、マネジャーを1年、広報部、事業企画部宣伝グループを歴任。「野球の深さを現役のときよりも勉強させてもらっています。プレー以外も考える機会が増え、全体を見渡すことが多くなりました。マネジャーのときは選手の移動チケット、ホテルなども手配して…。チーム外の方々と接する機会が増えて、より社会人になった気がしました。22歳で裏方になって、人生勉強をすごくさせてもらったなという感じです」
多くの経験から、学ぶものがある。「今は商品、ファンクラブ、イベント営業、チケット、飲食などの全ての部門がオンライン会議で『何かできることはないか』とミーティングで考えています。その会議で今回のインスタ更新なども決まりました。積極的に部署の垣根なく仕事に取り組んでいるから、ヒントがたくさんもらえるんです」。向上心で突き進む。
ファンを喜ばせるため、チームの勝利のために-。歩みを止めない。「今ふと考えたら、あれは…。『神のお告げ』だったんじゃないかなと思いますね」。
新人だった07年のファンフェスタ。仁藤氏は、とある先輩投手に背中を押された。「吉川勝成さん(背番号99)です。自分は1年目に右肘をトミー・ジョン手術していたので…。吉川さんに『仁藤、出番やな!』と言ってもらって大仏マスクをかぶって、ベンチから走っていきました」。歌に合わせて踊り、ファンを楽しませた。「ケガをしていたので、初めてマウンドに立ったのは大仏マスクをしているときだったんですよ(笑い)。そういう(ファンを喜ばせる)星の下に生まれたのかな…って、振り返ると思いますね」。
懐かしい記憶が脳裏をよぎる。仁藤氏は06年ドラフト4位でオリックス入団。入団してすぐに右肘をトミー・ジョン手術した。「普通なら落ち込むと思うんですけど、反対にポジティブになりました。基礎練習をやっていく期間なんだと捉えて。遠征の試合は行けず、神戸の寮で残って練習ばかりでした。(2軍の)ホームゲームもチャートをつける係で、野球漬けの1年でした」。
リハビリを終えた08年、サイドスローに転向。「酒井(勉)コーチから、投げる際の体の回転がサイドスローだから挑戦してみようと提案を受けてですね」。内角と外角の両サイドをうまく使えるよう「シュートを覚えました。クロスステップで投げていたので、右打者が嫌がる、食い込んでいくイメージで」と強気で攻めた。
翌09年、海を渡ったトルネード右腕に才能を見いだされた。「宮古島キャンプは2軍スタートでしたけど、紅白戦で1軍に呼んでいただいて。そのとき、臨時で野茂(英雄)さんがテクニカルコーチに来られていて。野茂さんに褒めていただいて、オープン戦も1軍に同行して、開幕1軍が決まったときでした。そのとき…」。突然、力が入らなくなった。病院での診断結果は「過敏性腸症候群」だった。「開幕を迎える頃には、もう体重が5~6キロも落ちていたんです…」。痛みに堪える日々を過ごした。そして…。09年4月7日が仁藤氏にとって、現役唯一の1軍戦登板となった。「やっぱり覚えていますね。本調子ではなかったんですけど。打たれはしたんですが、1軍のマウンドで手応えは感じていました。『あ、これできるな』と思った試合でした」。結果は1回2失点だったが「また2軍で頑張ろう。そう強く思いました。良い感覚をつかんだので、1軍に上がることを考えて一生懸命やろうと。集中力も1軍のマウンドは全然違いました。ボール1個分の出し入れができる。それにアドレナリンがすごく出ていたので」。
だが、体が全く言うことを聞かなくなった。「めちゃくちゃ悔しかったです。2軍に落ちてから、また体重が落ちて…。体がおかしくなってしまったんです。1日に何回もトイレに行きたくなるんです。食べたら、すぐトイレに…。だから何も食べれなくなってしまって…。投げることに集中できなかったですね」。試合への移動バスでさえ、トイレのない環境が不安になったという。「自分でも『こんな繊細だったのか』とビックリしました」。
10年に現役引退。4年間のプロ野球生活に幕を下ろした。その後は球団職員に転身。「1軍経験の少ない選手だったので…。球団に残して頂いて、感謝しかないです」。そう謙遜する。だが、記録に残る数字だけが全てじゃないはずだ。病状を隠して必死でつかんだ開幕1軍切符、09年4月7日のマウンド-。その経験が今、仁藤氏の胸を突き動かす。
かなえたい夢がある。「満員の京セラドームで、選手に気持ちよくプレーしてもらいたいんです。そこで勝って、満員のファンにも喜んでもらいたい。一緒に歓喜の瞬間を味わいたいんです」。ビシッと決めた黒髪で、今日もまた仁藤氏はユニホームを追いかける。泥だらけになった革靴のひもを結び直して、また立ち上がる。「最高のスタジアム」への扉を、そっと開くために。【オリックス担当=真柴健】
◆仁藤拓馬(にとう・たくま)1988年(昭63)7月13日、静岡県島田市出身。島田小3年で野球を始める。静岡・島田商高から06年高校生ドラフト4巡目オリックス入団。10年に現役引退し球団職員に転身。先乗りスコアラー、チームマネジャーなどを務め、昨年から事業企画部宣伝グループに所属。183センチ80キロ。右投げ右打ち。