中日、日本ハムで通算2204安打を放ち、日本ハムの監督も務めた大島康徳さんが6月30日に死去した。日本ハムの2軍本拠地、千葉・鎌ケ谷で精力的に活動する“生身のゆるキャラ”「DJチャス。」こと球団職員の中原信広さん(54)は日本ハム時代の大島さんと多くの時間を過ごした1人だ。「チャスの名付け親は大島さんだったんだよ」。約30年前のエピソードを教えてくれた。

90年に球団に入った中原さんは広報に就任。選手の前で大分・中津出身と紹介された時に大島さんが鋭く反応した。「お前、中津かー。帰すぞ、コノヤロー!」。何もしてないのに、ガツンと言われたのが初対面。不思議と、その場の空気も和み、チーム内に溶け込むきっかけとなった。

中原さん 大島さんは故郷の唯一の先輩なんだ。お互いに大分は中津の出身で高校は隣同士。大島さんが中津工業で俺が中津北高。口癖はね、もう「バカヤロウ」。文字にすると過激だけど、俺としてはうれしくてね。大分では、親しみのある人に言うんだよ。大島さんに「バカヤロウ」と言われた回数は俺が一番多いんじゃないかな。

しばらくすると、大島さんに変わった愛称で呼ばれ始めた。「チャス!」。理由は「こんにちは~っす」が「チャス」に聞こえるからだ。あっという間に球団内での通称となった。

中原さん 大島さんが最初に「チャス」と言い始めたんだ。俺の大学の先輩である武田一浩さんが面白がって言うようになった。さらに、マット・ウインタースが俺のまねをするんだ。「チャス、チャス、チャース」って。それで、どんどんチーム内でも浸透した。名付け親は大島さん、広めたのは武田さんとウインタースだね。

大島さんの現役時代で一番の思い出は通算2000安打を達成した時だ。

中原さん あと2本くらいになってから2週間ほどノーヒットが続いていたんだ。でも、いつ達成してもいいように花束を用意しておかなきゃいけない。広報1年目の俺の仕事は、ホテルの部屋で湯船に水をためて花束を入れておくことだった。それが何日も続いた時に球場入りのバスに花束を持って乗り込んだら、当時の近藤貞雄監督が「花束しおれてきたな」って言った後に「おい大島、いつまで花の面倒を見させてるんだ」と言ってバスの中が爆笑になったんだよね。

大島さんの日本ハム監督時代も近くで激務を見守ってきた中原さんが、最後に本人に会ったのが、コロナ禍の前の昨年1月だった。

中原さん 都内にある島田信敏さんのお店で「励ます会」があって参加させて頂いた。15人くらい集まって、その時も「お前ら心配しているかもしれないけど、髪だってこんなにあるんだぞ」って笑わせていたんだ。そこで、1つお願いしたんだ。「ちょっと、わがまま聞いてもらえますか?」って言ったら「どうしたんだ、写真か?」とすぐに分かってくれて。「実は大島さんと撮った写真が1枚もないんですよ」と言ったら「バカヤロウ。早くこっちに来い」。最初で最後の2ショット写真を撮ってもらったんだ。

会の終盤、大島さんがおもむろに発した言葉があった。

中原さん 「おいチャス!最近お前、有名人になっとるやないか」と。こっちは恐縮したけど、さらに続けて「でも、あれだな。バカの一つ覚えじゃないけど、何か1つをずっとやり遂げるのは素晴らしいことだよ」って言ってくれて。「お前の唯一の取りえは場を和ませてくれることなんだから」。え、それが唯一ですか?って笑っちゃったけど、「それを貫き通すことが、すごく大切なことだから、頑張れ」って。うれしかったよね。

紫の衣装を身にまとい、2軍戦を盛り上げ始めたのが14年シーズンから。名付け親の大島さんの言葉を胸に、中原さんは「DJチャス。」7年目の今季も、なりふり構わずにファンサービスに徹する。【日本ハム担当=木下大輔】